三十六人集 赤人集 (清書用臨書用紙)  
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旅中の自然を詠んだ叙景歌として高く評価されていた山部赤人の歌集で、筆者は不明。完存しており歌数は三五四首であるが、その多くは他集からの抜き書きで、前半部分は大江千里の句題和歌からの物で百十二首がありこれに赤人の歌三首が加えられている。この後二項分の白紙(墨入れ無し)が有って、最初の歌一首『春の野に漁る雉子の妻恋に、己が在処を人に知られつつ』までが前半部分(なぜこの歌が白紙の後に納められているのかは不明)。
後半は万葉集から書き写されたものとみられ、これらの歌をほぼそのまま含む書陵部蔵本の前半部分の歌二三五首とおおよそ一致する。相互に誤脱もあり整理すると、その歌数は全部で二四一首と推定される。また万葉集以外の歌が二首存在し、前半部分に納められている重複する二首を除く二三七首は大体同じ順序で万葉集巻第十に存在している(前半と重複する二首も万葉集巻第十以外に在り)。但し、赤人の歌と判っているものは少なく僅かに五首(前半三首と後半二首)で、大多数の物は詠み人知らずのものの書写となっている。

本集の料紙は全部で三十四枚あり、破り継料紙7枚、切継料紙は無く、重ね継料紙2枚、残りは具引唐紙(ギラ引唐紙7枚を含む)21枚と染紙4枚が使用されている。(全料紙組順へ)


赤人集 雲母引唐紙『花唐草』(清書用臨書用紙)

 赤人集 ギラ引唐紙 『花唐草』 (三十六人集)   赤人集 雲母引唐紙 『花唐草』 書拡大へ
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ギラ引(雲母引)唐紙

綺羅引とも呼びます
ギラ引(雲母引)唐紙 『花唐草』(赤人集)・(半懐紙)
胡粉白色に白雲母で花唐草(宝相華唐草とも)が摺り出されております。
 
写真はギラ引唐紙で
花唐草共通の代用品です
 ギラ引(雲母引)唐紙左上側部分拡大
赤人集 ギラ引唐紙 『花唐草』 (三十六人集) 拡大 
判り辛いですが、蔓竜胆・紅葉・桜草・蝶々・千鳥が描かれております。春が待ち遠しい様子が感じとって頂けますでしょうか 
ギラ引唐紙 『花唐草(宝相華唐草)』(赤人集)左上側部分 花鳥折枝金銀袷型打  
元々はインドより伝わって来たとされる八枚の花弁を持つ花に宝唐草と同じ様な宝相華の茎葉で
唐草を描いてあるので、花唐草と言われております。光の当たり具合で柄の見え方が変化します。
 
写真はギラ引唐紙で
花唐草共通の代用品です 
ギラ引(雲母引)唐紙 中央部分拡大
赤人集 ギラ引唐紙 『花唐草』 (三十六人集) 拡大 
判り辛いですが、柳・紅葉・松枝・蝶々・千鳥が描かれております。地が雲母引で唐草柄が胡粉引となり、通常の具引唐紙とは輝き方が逆転しております
 ギラ引(雲母引)唐紙『花唐草』   花鳥折枝金銀袷型打  
宝唐草とは違った独特の花の形をしていて同じ様な宝相華の茎葉で唐草を描いてあるので、
花唐草と言われております。光の当たり具合で柄の見え方が変化します。
ばら売り用ページです
ネットショップへ
 『花唐草』



赤人集 書手本

赤人集 第二十三紙 雲母引唐紙 『花唐草』 (三十六人集) (戻る 赤人集へ)  赤人集 雲母引唐紙 『花唐草』 部分拡大へ


 
解説・使用字母

実際よりもやや紫に移ってしまっております。


 赤人集 雲母引唐紙 『花唐草』 書拡大へ
 雲母引唐紙 『花唐草』(赤人集)書手本 縦6寸7分、横1尺5分5厘 第二十三紙

歌番号は赤人集での通し番号                   青色文字は使用字母      解釈(現代語訳)
208
 (いそのかみ ふるのやしろの すぎにしを)
 われらさらさら こひにあひにけり

   このひとうたかへしあらずとてかへ
   せりか、かれはこのついでにいりたるなり


209
 さのかたは みにならずとも はなにのみ
 さきてなみえそ こひのさくらを


210
 さのかたは みになりにしを いまさらに
 はるさめふりて はなさかぬやは


211
 あづさゆみ ひきつべきやある なつくさ
 の、はなさかぬまで あはぬきみかな


212
 かはかみの いつものはな いつもいつも、きま
 せわがせこ たえすまつはた

213
 はるさめの やまずふりおちて わがこふ
 る、わがいもひさに あはぬころかな

214
 わぎもこを こひつつをれば はるさめの
 たれもるとてか やまずふりつつ

215
 はるくれば まつなくをりの うぐひ
 
(すの、ことさきたちし はなをしまたむ)


208

 (以所乃可美 不留乃也之呂能 春支仁之遠、)
 和禮良佐良〜 己比爾安比爾介利

   己乃比止宇太可部之安良須止天可部
   世利可、々禮者己乃川以天爾以利太留奈利


209
 左乃可多者 美爾奈良須止无 者奈仁乃三、
 佐支天奈美衣所 己比乃左久良遠

210
 散能可太者 美爾奈利爾之遠 以末左良仁
 波留左女不利天 者奈佐可无也者

211
 安川散由美 比支川遍支也安留 奈川久佐
 能、者奈散可奴末天 安者奴幾美可那

212
 加者可美乃 以川毛乃者那 以川毛〜、幾万
 世和可世己 太衣須末徒者多

213
 波留左女乃 也末春不利於知天 和可己不
 留、和可以毛比散耳 安和奴己呂可那

214
 和支毛己遠 己比都々乎禮者 々留佐女乃、
 堂禮毛留登天可 也末須不利徒々

215
 者留久禮者 末徒奈九遠利能 宇九比
 
(春乃、己止佐支多知之 者奈遠之末多无)

 
「介」は「个」とすることも         ( )内黄文字は前項及び次項に在り
「禮」は「礼」とすることも
「與」は「与」とすることも
「爾」は「尓」とすることも


           現代語訳                    解釈         
解説及び使用字母
208
「石上布留の社の過ぎにしを、我ら更々恋に会いにけり」
布留の社である石上神宮を通り過ぎてしまったので、私たちは今新たに恋に出会ってしまいましたよ。


   この人は(相手の人が)返歌をしなかったとして帰られたが、
   彼はこのついでに言っていたのだ。

209
「然の方は実にならずとも花にのみ、咲きてな見えそ恋の桜を」
そのお方とは実にならずとも花だけでもと、どうか咲いているように見えないでおくれよ、恋の桜を!。



210
「然の方は実になりにしを今更に、春雨降りて花咲かぬやは」
そのお方とは恋が成就していたであろうものを、今更ではあるが春雨が降って花が咲かないなどという事があるだろうか!否ないはずだよ。



211
「梓弓引きつべきある夏草の、花咲かぬまで逢はぬ君かな」
引き抜いてしまうべきだったのであろうかこの夏草を、花が咲いてしまうまでは会わないでおこうと我慢していた君なのだけれども。



212
「河上のいつもの花何時も何時も、来ませ我が背子絶えず待つ端」
河上より流れ来るいつ藻の花のように何時も何時も、来てくださいな愛しい御方よ、絶えず待っておりますよこの川の畔で。



213
「春雨の止まず降り落ちて我が恋ふる、我が妹久に逢はぬ頃かな」
春雨の止むことも無く振り続けていて、私が恋い慕っている娘にも久しく逢ってない頃かもなあ。



214
「我妹子を恋ひつつおれば春雨の、誰守るとてか止まず降りつつ」
私の愛しい人を慕い続けて(此処にこうして私は)居るのだが、春雨はいったい誰を守ろうとして止まずに降り続けているのだろうか。



215
「春来れば先づ鳴く折の鶯の、事先立ちし花をし待たむ」
春が来たなら真っ先に鳴く丁度その時の鶯の、その囀りに先立って梅の花をこそ待ちたいものだよ。




208
(布留の社である石上神宮を過ぎたところでお互い年を取って終いましたが、私たちは思いがけずも新たに恋に陥ってしまいましたよ。)との意を詠んだ歌。

石上;枕詞。地名「布留」に掛る。官幣大社である石上神宮のある一体を指す。

209
(そのお方とは恋が実る事が無くともお姿だけでも見たいものと、どうか咲いているように見えないでおくれよ、心の中で花開いている恋の桜を!。)との意。

210
(そのお方とは恋が成就していたであろうものを、今更ではあるが春雨が降って花が咲かないなどという事があるだろうか!否ないはずだよ。春雨の為に恋の花が咲かないなんて、咲いてほしいものだよ。)との意。

春雨;春の頃しとしとと音も無く静かに降る雨。古くより静かで艶なもの、しっとりとして情の細やかなものといった感じで詠われてきた。三冊子によると陰暦正月から二月初めにかけて降る雨を春の雨、二月末から三月にかけて降る雨を春雨と区別している。

211
(花が咲くまで引き抜かないで其の儘にして置いた夏草の為、庭が草茫々なのであろう。花が咲くまでは君に会わないでおこうと決めていたのだが、一向に咲く気配もなくついつい延び延びになってしまった様子が窺える。煮え切らない自身の思いとも重ね合わせているのだろうか。)

梓弓;枕詞。「ひく」に掛る。

212
(河上より流れ来るよく茂ったいつ藻の花のように何時も何時も、来てくださいな愛しい御方よと願い乍ら絶えず待っておりますよこの川の畔でね!。)
いつも
厳藻;葉の茂った藻。「厳」は威勢よく繁茂すること。「何時も何時も」を導き出すための序となる。

213
(春雨の止むことも無く振り続けていて、私が恋い慕っている娘にも久しく逢ってない頃かもなあ、久々に逢えないかなあ。)との意。

…ぬかな;…しないかなあ。打消しの助動詞「ず」の連体形に詠嘆を込めた疑問の終助詞「かな」がついて願望の意を表す。

214
(ひょっとして私が慕い続けることを止めたのなら、春雨も降りやんでくれるのだろうか。私の心には雨が降り続くことになるのだが)との意を詠んだ歌。
215
(待ってましたとばかりに先ず春を告げる鶯が鳴くのだが、心待ちにしていたのは梅の花の開花ですよ。)との意。

をし;「を」も「し」もともに強調を表す間接助詞で、連座させることによって更なる協調を表すためか、語調を整えるためのもの。又は、「を」は動作の対象を表す格助詞で、「し」は強意の間接助詞として「を」の前の体言を強調する。(ここでは花=梅の花)







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  解説及び使用字母


やまべのあかひと
山部赤人;山部宿禰赤人とも。奈良初期の歌人で、優美で清らかな自然を豊かに詠んだ代表的な自然派詩人で、三十六歌仙の一人である。柿本人麻呂を継承する宮廷歌人として柿本人麻呂と共に二大歌聖と称されている。下級官僚として宮廷に仕えていたとされ、聖武天皇のお供として吉野や紀伊国その他へお出かけになられた際に詠んでいる歌が多い。万葉集に長歌13首、短歌36首がある。生没年不詳。
よく知られた歌に『田子の浦』があるが、万葉集では「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ不盡の高嶺に雪は降りける」(田子の浦を通り過ぎ出て遥か遠くを見てみると、真っ白になって富士山の頂上に雪は降り積もっている事よ)。となっているが、新古今集や小倉百人一首では、「田子の浦
うち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」(田子の浦に出かけてみれば富士山の峰に真白な雪が降り続けていますよ)。と書き換えられている。万葉集ではやっとのことで田子の浦を通り過ぎて一息して見上げてみると山頂に雪が積もっているよという詠者自身の感動の歌であったが、後世の書き換えでは一幅の絵画の様な荘厳な叙景を表した歌となっている。これは単なる転記ミスか、或は歌聖と崇められたるが為のなせる業か。皆さんは如何思われるでしょうか。

「ゆ」;動作の起点や通過点となる所を表す。動きに主体がある場合に用いることが多い。 「に」;単にその地点を表す。場所に主体がある。 「白妙の」;枕詞。白を連想させる「雪」に掛る。
「ける」;過去の助動詞「き」と「あり」とが結合した「けり」。過去に有ったことや、人から聞いて知っていたことを思い起こして言う。 「つつ」;完了の助動詞「つ」を重ねる事で動作が完了して又完了と動作が継続或は進行中である意を表す。


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赤人集 第二十三紙 具引唐紙 『花唐草』 (三十六人集) (戻る 赤人集へ) 
判り辛いですが、紅葉・花枝・蝶々・千鳥が金銀泥で描かれております。唐紙柄は蒲公英唐草で黄雲母です。
  
解説・使用字母  
 具引唐紙 『花唐草』(赤人集)書手本 第二十三紙  右上側部分拡大  

赤人集 第二十三紙 具引唐紙 『孔雀唐草』 (三十六人集) (戻る 赤人集へ)
 
 判り辛いですが、柳・紅葉・千鳥が金銀泥で描かれております。唐紙柄は蒲公英唐草で黄雲母です。
 解説・使用字母  
 具引唐紙 『花唐草』(赤人集)書手本 第二十三紙  左下側部分拡大  




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