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重之集  ギラ引唐紙『獅子唐草』 (清書用臨書用紙)

重之集 ギラ引唐紙 『獅子唐草』 花鳥折枝金銀袷絵
ギラ引唐紙 薄茶『獅子唐草』 花鳥折枝金銀袷型打 (半懐紙)


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 獅子唐草中央やや上側部分 ギラ引唐紙 薄茶 花鳥折枝金銀袷型打
獅子唐草(繋丸紋獅子唐草)花鳥折枝金銀袷型打は実物とは異なります。。
ギラ引唐紙(獅子唐草)の花鳥折枝の柄違い代用品です。
 重之集 書

重之集 ギラ引唐紙 『獅子唐草』 花鳥折枝金銀袷絵 拡大 
花鳥折枝金銀袷型打

柄を見やすくしたもの
 
獅子唐草左下側部分 ギラ引唐紙 薄茶 花鳥折枝金銀袷型打
枝松・柳・紅葉・桜草・千鳥など
 
 


重之集 具引唐紙 『獅子唐草』 拡大 
 参考(具引唐紙)

花鳥折枝金銀袷型打

柄を見やすくしたもの
 具引唐紙での花鳥折枝の見え方
獅子唐草柄は光を反射しやや白っぽくに見えます。

金銀袷型打も淡い光の為やや鈍い色合いです。
 


重之集 書手本

重之集 ギラ引唐紙 『獅子唐草』 第十五紙 書 拡大   使用字母
及び解説
 重之集 書 縦6寸7分、横1尺5分5厘 ギラ引唐紙『獅子唐草』白雲母 第十五紙
 

歌番号は重之集での通し番号              青色文字は使用字母

   しなののつかまのゆにをかしかりし
   かはかきつけしこれただのさいさう
   のをり

140
 いづるゆの わくにかかれる しらいとは、くる人
 たえぬ ものにざりける


   やがてむまやをそへたるおなしことなれと、
   をかしとみるもがみがは。

141
 もがみがは おちそふたきの しらいとは、山の
 まゆより くるにざりける


   このもがみがはいみじき所なり、よにに
   ずおもしろきところなれば、すぎがた
                   し
142
 もがみがは たきのしらいと くる人の、心よらぬ
 は あらじとぞおもふ


   などぞ、いひあつめける
   むかし堀川殿いし山よりかへりたまひ
   しに、はしりゐにてよませたまひ
    し




   志那乃々川可末乃遊爾遠可之可利之
   可者可支川計之己礼太々能佐以左宇
   能遠利

140
 以川留由乃 和久仁可々礼留 志良以止者、久留人
 太衣奴 毛乃爾左利計類


   也可天武末也遠所部太留於奈己止奈礼止、
   遠可之止美留毛可三可者

141
 毛可三可波 於遅所婦太支乃 志良以止者、山乃
 末由與利 久留爾左利計類


   己能毛可美可者以三之支所奈利、與仁々
   春於毛之呂支止己呂奈礼者、春支可太
                   心
142
 茂可三可者 太支乃之良以止 久留人能、心與良奴
 者 安良之止所於毛不



   奈止所、以比安川女計留
   武可之堀川殿以之山與利可部利太末比
   志爾、者之利為爾天與末世太末比
    志



「爾」は「尓」とすることも。
「與」は「与」とすることも。
「个」は「介」とすることも。
「礼」は「禮」とすることも。


( )黄色文字は次項にあり

 つかまのゆ
塚間乃湯;長野県岡谷市塚間町付近の温泉。諏訪湖畔の温泉郷の一つであったものか。

これただのさいさう
伊尹宰相;藤原伊尹。平安中期の公卿で歌人。右大臣・藤原師輔の長男で970年伯父である藤原実頼の死後右大臣となり摂政を経て翌年太政大臣となる。和歌に優れ、家集に一条摂政集があり後撰和歌集の撰集にも加わる。生924年〜没972年

140
湧き出してくる湯の吹き上がる折に現れる(間欠泉の様な)白糸は、(見物或は湯治に)来る人の絶えないものであったのだなあ。

むまや 
駅;街道の主要な所々に馬、人足などを備えておいて旅人の利用に充てた所。

141
最上川に落ちて加わる滝の白糸は、山の眉からやってきていたのだなあ。

やま まゆ
山の眉;遠くの連山を眉に見立てて云ったもの。眉の切れ目を連山の切れ目に見立てそこから流れ落ちる水を滝の白糸に喩えたもの。


いみじき;素晴らしい。優れている。立派な。など望ましい場合に使う。

世に似ず;世間に類がない。この上なく素晴らしい。

142
最上川の滝の白糸を(見物に)来る人は、(その景観の素晴らしさに)好意を寄せないなどということは有ろうはずが無いと思いますよ。

ほそかわどの
堀川殿;堀川大臣こと藤原基経のこと。平安時代の貴族藤原長良の子で、叔父良房の養子として後を継ぐ。陽成天皇の時摂政となるが、天皇を廃して光孝天皇を立てて政務を代行する。宇多天皇が即位するとやがて阿衡の紛議を起こして関白となる。生836年〜没891年 死後の名は昭宣公とも云う。

参考(時代がやや下るのでこちらではない。)
堀川天皇;白河天皇の王子であるが、8歳での即位であった為当初から白河上皇が院にて政務を司っていた。これにより勉学に励むことができ、身近で政務を見ながら長期的に吸収することができるに及んで、和歌・管弦にも精通した末代の賢王と称された。が若くしてこの世を去る。(享年29歳)
また自身に奉られたものとされる堀川百首があり、歌題の構成は春20・夏15・秋20・冬15・恋10・雑20の計百題で、14名の歌人が各題1首ずつの計100首を詠んだものである。生1079年〜没1107年



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みなもとのしげゆき
                                                            とうぐうぼう とねりのつかさ
源重之;平安中期の歌人で、左馬助・相模権守を歴任、三十六人歌仙の一人として旅の歌を好んで残している。春宮坊の舎人監の役人の筆頭者として、皇太子の護衛に当たっていた時、後の冷泉天皇となる皇太子に奉った百種は、現存する最古の百種歌となっている。生年及び没年不詳。〜1000年頃と考えられている。


                                                                     
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