高野切(高野切古今集)第二種書風 巻子本巻第五・古今和歌集断簡

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第五巻と末巻とに奥書された後奈良天皇の花王により、永らく伝紀貫之筆とされてきたが、現在では三名の能書きによるものという説が定着している古今和歌集として現存する最古の書写本である。高野切の名は秀吉から古今和歌集の一部が高野山金剛峰寺文殊院の住持である木食応其に色紙型に切断した茶掛けとして分け与えられた物が、高野山から周知されたことに始まり一連の他の書写の物も同様に高野切と呼ばれるようになる。11世紀中ごろの書写と推定される。

第二種書風(源兼行筆)、第二巻〜第八巻。
二・三・五・八巻は現存。青字は完本として現存している。
伝紀貫之筆「桂万葉集」、伝藤原行成筆「雲紙和漢朗詠集」・「関戸本和漢朗詠集」、伝宗尊親王筆「永承四年内裏歌合」・「永承六年内裏歌合」、源兼行筆「平等院鳳凰堂色紙型」などと同筆とみられる。
おおらかで力強く堂々として我が道を行くと云った風な筆致で、やや斜めに運ぶ癖は有るものの典雅優麗と呼ぶに相応しい。
現代の平仮名に最も近いかならしい仮名を用いた書風の写本で有り、書を始めたばかりの人にも優しく入って行ける手本となっている。
料紙は麻紙風の鳥の子で雲母砂子を振った薄茶色の素紙(或は具を塗っていない染紙)で、振り量の多い物や少ない物など巻や部位によりまちまちである。この第二種書風の各巻の料紙は特に雲母砂子が多く振られている物が目立つ。

高野切臨書用紙は本鳥の子製染紙に雲母砂子振

高野切 巻子本・巻第九 断簡 染紙 雲母砂子振り 第一種書風  拡大へ 高野切 巻子本・巻第五 末紙 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第五 末紙 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第五 第一紙 染紙 雲母砂子振り  拡大へ
巻子本 『高野切』・巻第五
第二種書風
  
巻子本 『高野切』・巻第五
第二種書風
  
巻子本 『高野切』・巻第五
第二種書風
 
 巻子本 『高野切』・巻第五
第二種書風
高野切 巻子本・巻第九 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第二 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第八 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第八 第二紙 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第八 第一紙 染紙 雲母砂子振り  拡大へ
巻子本 『高野切』・
巻第五・奧書
後奈良天皇花王
 
巻子本 『高野切』・巻第二
第二種書風
   
巻子本 『高野切』・巻第八
第二種書風
  
 子本 『高野切』・巻第八
第二種書風
  
子本 『高野切』・巻第八
第二種書風
   


『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第五 末紙 部分拡大へ 
巻子本 『高野切』・巻第五 部分 
(古今倭歌集巻第五 秋哥下)
 
巻子本 『高野切』
巻第五 末紙
第二種書風

解説及び使用字母
 
             かな                  使用字母



  寛平御時にふるうたたてまつれとお
  ほせられければ、たつたがはもみぢば
  ながるといふうたをかきて、それのお
  なじこころをよめる

            おきかぜ

310
 みやまより おちくるみづの いろみてぞ、
 あきはかぎりと おもひしりぬる


  あきのはつるこころをたつたがはを
  おもひやりて

            つらゆき
311
 としごとに もみぢばながす たつたがは、
 
みなとやあきの とまりなるらむ


  九月三十日おほゐにて、よめる

312
 ゆふづくよ おぐらのやまに なくし
 かの、こゑのうちにや あきはくる
  らむ


  おなじつごもりのひ

             みつね
313
 みちしらば たづねもいなむ も
 みぢばを、ぬさにたむけて
 あきはいぬめり


 巻第五
             


 



   寛平御時爾不留宇多々天末川礼止於
   保世良礼个礼波、多川太可者毛美知波
   那可留止以不宇多遠可支天、曾礼乃於
   奈之己々呂遠與女留

                於支可世

310
 美也末與利 於知久留美川乃 以呂美天曾、
 安支波可幾利止 於无比之利奴留

   安幾乃者川留己々呂遠多川太可波遠
   於无比也利天

                川良由幾
311
 止之己止仁 毛美知波奈可数 多川太可波、
 美奈止也安支能 止末利那留良武


   九月卅日於保爲爾天、與女留

312
 由不川久與 遠久良能也末耳 那久之
 可能、己恵乃宇知爾也 安支波具留
  良舞


   於奈之川己无利乃比

                 美川禰
313
 美知之良盤 多川禰无以奈武 毛
 見知波乎、奴左耳多武个弖
 安支盤以奴女利


 巻第五
                 


解説



   寛平御時に昔の和歌を詠んでみよとおっしゃられたので、
   「竜田川紅葉葉流る」と云う歌を書いて、その歌と
   同じ気持ち詠んで献上した歌
                   興風
310
 深山より落ち来る水の色見てぞ、秋は限りと思ひ知りぬる。
奥深い山より流れ落ちて来る水の色を見て、秋も終盤になって終たんだなとしみじみと感じましたよ。


    秋が終わってしまう風情を(感じ取って)竜田川に
    思いを巡らせて詠んだ歌

                   貫之
311
 年毎に紅葉葉流す竜田川、水門や秋の泊りなるらむ。
毎年決まって紅葉の葉を流す竜田川、行き着くところは秋の停留所(終着点)なのだろうか!。




    
九月三十日大堰にて詠んだ歌

                   
312
 夕月夜小倉の山に鳴く鹿の、声の内にや秋は来るらむ。
月の見えている夕暮れ時、小倉山の方で鳴いている鹿の声が聞こえるが、この鳴き声が聞こえて来始めるとその内に秋がやって来るでしょうよ。(雌を呼ぶ牡鹿の鳴声は物悲しさを伴って秋の風物詩として親しまれている)その気配を先取りしての風情を詠った歌である。


    同じ月の最終日(同じ日)
                   躬恒

313
 路知らば訪ねも否む紅葉葉を、幣と手向けて秋は去ぬめり。
路を知っていたならば訪ねて来ることも断っていたでしょう、居並ぶ紅葉の葉を捧げ物として差し出して秋は去って終いましたよ!。(秋が去って行くと次は寒い寒い冬が訪ねて来るのですから、訪ねてきてくれずとも好かったのにね)


 巻第五
                  


書いて献上したと思われる古歌、
「竜田川紅葉葉流る神南備の、三室の山に時雨降るらし」(人丸集
竜田川を紅葉がさらりさらりと流れている、神のおはします辺りの三室山にはどうやら時雨が降っている様ですよ。(参;高野切・巻第五)

参考
「深山より落ち来る
の色見てぞ、秋は限りと思ひ知りぬる。」(興風集)

色;文字通り水面に浮かぶ落葉の色でもあるが、流れ来る量や間隔を見ての気配。


みなと 
水門;河口など、川や海などの水の出入り口。船の出入りする所も転じて港となった。更に転じて水や物などの行き着くところ。



おおい

大堰;大堰川の流域一帯。丹波山地から亀岡盆地を経て京都盆地へ流れ出る川。亀岡盆地から京都盆地北西部隅の嵐山までを保津川とも言い、その下流を桂川と云う。平安時代には嵐山付近の渡月橋上流域で、管弦の船を浮かべて貴族が宴遊した場所でもある。
延喜7年秋には宇多法皇が大堰川に御幸の時、共に随行した紀貫之・凡河内躬恒らの六人の歌人が法皇の勅題に応じて其々9首ずつの和歌を詠進した。(この時躬恒だけはなぜか18首も詠進)907年9月10日

おぐらやま
小倉山;京都市右京区嵯峨西部に位置する山。保津川を隔てて嵐山と対峙している山で紅葉の名所。

小倉山;奈良県桜井市にある山。鹿などが和歌に詠まれることの多い山。

つごもり
晦日;陰暦で月の下旬。また月の最終日。「みそか」ともいう。




幣;神に祈る時に捧げる御供え物。

めり;そのように見えている意を表す。

路とは秋の訪ね来る路


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 高野切 雲母砂子の様子
(写真は巻第八)

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『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第五 末紙 右上側部分 別部分拡大へ 巻子本 『高野切』
巻第五 末紙
右上側部分

第二種書風
 

『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第五 末紙 右下側部分 別部分拡大へ
 巻子本 『高野切』
巻第五 末紙
右下側部分

第二種書風
 
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『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第五 末紙 左上側部分 別部分拡大へ 
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第二種書風

































 巻子本 『高野切』
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第二種書風

 
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ごならてんのう

後奈良天皇;戦国時代の天皇。後柏原天皇の第二皇子で在位は1526年〜1557年、当時は皇室が最も衰弱した時代で即位式も出来ずに十年が経ち、北条・大内ら戦国大名の献金によってようやく挙行が叶った。疫病の流行や飢饉の際に宮中で修法を行い、般若心経を書写して祈願したことは窮乏生活を露呈しているとともに有名である。日記に「天聴集」がある。また天文十三年三月十五日付の日記に『陽明(前太政大臣近衛種家四十二歳)より、古今集奧書の事申さる。貫之の筆なり。近比、比類なき事なり。』とあることから高野切古今集第五巻・第二十巻の奧書の花王が後奈良天皇の物と分かる。(生年1496年〜没年1557年)

こんごうぶぢ
金剛峯寺;和歌山県高野山にある高野山真言宗の総本山。816年に空海が開山し、819年寺塔を建立する。平安中期には東寺と真言宗本山の地位を争ったが、敗れて東寺長者の管轄を受けるに至り勢いが衰えた。然しながら、平安末期になると復興を遂げ、白河天皇・鳥羽天皇からの崇拝を厚くして1132年には覚鑁が伝法院を建てて隆盛に赴いた。空海の入定処として多くの参詣者を集め、大師信仰・納骨信仰の中心となるなど、この頃に成ると宗派を超えて納骨、造塔の風習が盛んとなり、真言密教の典籍を主とした高野版の開版なども始められた。戦国時代には織田信長の家臣の武将の攻撃も受け、豊臣秀吉も当初攻撃を試みたが、その応対をした応其に帰依して保護を加えるようになった。全山は12区に分かれ、中心部は壇場と呼ばれ金堂・根本大塔がある。また奥の院には空海の遺体を安置しており、経蔵には高麗版一切経が納められている。金剛峯寺本坊は秀吉が寄進した青巌寺で、大建築の主殿・書院となっている。また、不動堂は平安時代の和様建築の様式を伝える鎌倉時代初期の名作で、高野山最古の現存する建築となっている。


うだほうおうらくさいおほいがわみゆきずいこうしゃ  きのつらゆき  おおしこうちのみつね  おおなかとみのよりもと さかのうえのこれのり ふじわらのこれひら  みぶのただみね
宇多法皇洛西大堰川御幸随行者;紀貫之、凡河内躬恒、大中臣頼基、坂上是則、藤原伊衡、壬生忠岑の六名。




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