高野切(高野切古今集)第三種書風 巻子本巻第十八・古今和歌集断簡

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第五巻と末巻とに奥書された後奈良天皇の花王により、永らく伝紀貫之筆とされてきたが、現在では三名の能書きによるものという説が定着している古今和歌集として現存する最古の書写本である。高野切の名は秀吉から古今和歌集の一部が高野山金剛峰寺文殊院の住持である木食応其に色紙型に切断した茶掛けとして分け与えられた物が、高野山から周知されたことに始まり一連の他の書写の物も同様に高野切と呼ばれるようになる。11世紀中ごろの書写と推定される。(貫之自筆本三本の謎についてはこちら

第三種書風(書写人不詳)、第十三巻〜第十九巻。十八・十九巻は現存。伝藤原行成筆蓬莱切・同御物朗詠集(粘葉本和漢朗詠集)・同伊予切和漢朗詠(上巻の前半部分)・同法輪寺切和漢朗詠・同近衛本和漢朗詠等との筆跡に酷似している。所謂『行成様』の手によるもの。
端正と迄はいかない乍らものびのびとした流麗な仮名が適度な潤渇を交えて美しく、雅やかであり気高くもある。穏かで優しさを秘めた書体として、読み手に取っても手習の手本とするにしても程よい素材となる。

料紙は麻紙風の鳥の子で雲母砂子を振った薄茶色の素紙(或は具を塗っていない染紙)で、振り量の多い物や少ない物など巻や部位によりまちまちである。この第三種書風の各巻の料紙は雲母砂子が多く振られている物や振り量の極少ない物、雲母粒のやや大きなものなどが目につき、料紙は寄せ集められたものではないかとの憶測も感じられる。

高野切臨書用紙は本鳥の子製染紙に雲母砂子振

高野切 巻子本・巻第十九 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第十八 末紙 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第十八 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第十八 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第十八 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ
巻子本 『高野切』・巻第十九 断簡
第三種書風
  
巻子本 『高野切』・巻第十八
断簡 第三種書風
  
巻子本 『高野切』・巻第十八 断簡
第三種書風
  
 『高野切』 
巻第十八
第三種書風
 
  『高野切』 
巻第十八  断簡
第三種書風
『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第十九 断簡「旋頭歌」 部分拡大へ 『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第八 断簡 「や」 部分拡大へ 『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第二十 断簡 「や」 部分拡大へ 『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第十九 断簡「旋頭歌」 部分拡大へ 『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第八 断簡 「や」 部分拡大へ 『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第二十 断簡 「や」 部分拡大へ
第三種書風 第二種書風 第一種書風  第三種書風 第二種書風 第一種書風


『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第十八 断簡「あしたづの」 部分拡大へ『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第十八 断簡「あしたづの」 部分拡大へ
巻子本 『高野切』・巻第十八 部分 
(古今倭歌集巻第十八 雑哥下)
 
巻子本 『高野切』
巻第十八 断簡
第三種書風

解説及び使用字母
 
             かな                  使用字母


   寛平の御時にうたたてまつりける
   ついでにたてまつりける

            大江のちさと
998
 あしたづの ひとりおくれて なくこゑ
 は、くものうへまで きこへつがなむ


            ふぢはらのかちおむ


999
 ひとしれず おもふこころは はるがすみ、
 たちでてきみが めにもみえなむ


   うたをめしけるときにたて
   まつるとて、よみておくにかきつ
   けてたてまつりける

            伊勢
1000
 やまかはの おとににのみきく ももしき
 を、みをはやながら みるよしもがな



 巻第十八



 


   寛平能御時爾宇太々天末川利計留
   徒以天爾太天末川利計留

                大江乃知左登
998
 安之多川乃 比止利於久礼天 奈久己恵
 波、久毛能宇部万弖 幾己江川可那武


                不知波良乃可知於无

999
 飛止之礼春 於毛不己々呂波 々留可春美、
 多知天々支美可 女仁毛美衣奈无


   宇太遠女之計留止支仁多天
   末川留止弖、與美天於久爾可支徒
   計弖太天末川利計留

                 伊勢
1000
 也末可波乃 於止爾乃美幾久 毛々之

 遠、美乎者也奈可良 美留與之毛可那



 巻第十八


解説




   寛平の御時に歌を献上するついでに
   さしあげて詠んだ歌
                   大江千里
998
 葦田鶴の一人遅れて鳴く声は、雲の上まで聞こえ継がなむ。
独りだけ取り残されて詫びている声は。宮様まできちんとお耳に達するようにお伝えしておきますよ。

                   藤原勝臣
999
 人知れず思ふ心は春霞、立ち出て君が目にも見えなむ。
秘かに慕う気持ちが強過ぎて、(霞の様に湧き立って君の前に)現れ出たならきっと貴方の目にも見えることだろう!。(例えそれが長続きすることの無いものだとしても)


   歌を詠むよう命じられた時に献上しようと思って
   秘密にして書き留めておいたのを
   献上して詠んだ歌

                   伊勢
1000
 山川の音にのみ聞く百磯城を、身を逸ながら見る由もがな。
噂にだけは聞いたことの有る宮中を、心躍らせながら見る手立てが有ったら良いのになあ!。







あしたづ

葦田鶴;鶴の異名。蘆の生えている水辺に多く生息していることから付いた名。
葦田鶴の;枕詞。鶴の鳴くことから「なく」「音」に掛る。

かひ
聞こえ継ぐ;取り次いで申し上げる。お耳に達するようにきちんとお伝えする。「言い継ぐ」の謙譲語。


         
もや
春霞;春に立つ霞。靄よりは見通しが悪く、霧よりは見通しが良い。
和歌では春に立つのを霞、秋に立つのを霧と称して区別している
霞の方が柔らかくて短命、霧は濃くて命も長め(季節と気温が関係する)。枕詞。「立つ」に掛る。「居る」「ゐ」「春日」などにも。

なむ;完了の助動詞「ぬ」の未然形に推量の助動詞「む」の付いたもの。未来の推量・決意・可能性・勧誘などの意を表し、それらの意が動かす余地の無いものであるという強調を「な」が受け持つ。
きっと…するだろう。…する事が出来るだろう。

やまがは
山川の;枕詞。「音」に掛る。

ももしき
百磯城;皇居。宮中。枕詞の掛る「大宮」からその意味が転じた物。

百磯城の;枕詞。多くの石や木を組んで作ってあるからとする意より「大宮」に掛る。

はや

逸る;心が進む。夢中になる。勇み立つ。焦り立つ。

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清書用・臨書用紙 高野切 本鳥一号 染 雲母振り   戻る 『清書用・高野切」へ  清書用・臨書用紙 高野切 本鳥一号 染 雲母振り   戻る 『巻子本・高野切』へ 
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 高野切 雲母砂子の様子
(写真は巻第八)

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『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第十八 断簡「あしたづの」 右上側部分 別部分拡大へ 巻子本 『高野切』
巻第十八 断簡
「あしたづの」右上側部分

第三種書風
 

『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第十八 断簡「あしたづの」 右下側部分 別部分拡大へ
 巻子本 『高野切』
巻第十八 断簡
「あしたづの」右下側部分

第三種書風
 
  拡大     巻子本 『高野切』・巻第十八 断簡「あしたづの」 (古今倭歌集巻第十八 雑哥下)  

『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第十八 断簡「あしたづの」 左上側部分 別部分拡大へ 
上側部分拡大    巻子本 『高野切』・巻第十八 断簡 (古今倭歌集巻第十八 雑哥下) 

『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第十八 断簡「あしたづの」 左下側部分  一覧へ 
 巻子本 『高野切』
巻第十八 断簡
「あしたづの」左上側部分


第三種書風

































 巻子本 『高野切』
巻第十八 断簡
「あしたづの」左下側部分


第三種書風

 
下側部分拡大   巻子本 『高野切』・巻第十八 断簡「あしたづの」 (古今倭歌集巻第十八 雑哥下)  


ごならてんのう

後奈良天皇;戦国時代の天皇。後柏原天皇の第二皇子で在位は1526年〜1557年、当時は皇室が最も衰弱した時代で即位式も出来ずに十年が経ち、北条・大内ら戦国大名の献金によってようやく挙行が叶った。疫病の流行や飢饉の際に宮中で修法を行い、般若心経を書写して祈願したことは窮乏生活を露呈しているとともに有名である。日記に「天聴集」がある。また天文十三年三月十五日付の日記に『陽明(前太政大臣近衛種家四十二歳)より、古今集奧書の事申さる。貫之の筆なり。近比、比類なき事なり。』とあることから高野切古今集第五巻・第二十巻の奧書の花王が後奈良天皇の物と分かる。(生年1496年〜没年1557年)

こんごうぶぢ
金剛峯寺;和歌山県高野山にある高野山真言宗の総本山。816年に空海が開山し、819年寺塔を建立する。平安中期には東寺と真言宗本山の地位を争ったが、敗れて東寺長者の管轄を受けるに至り勢いが衰えた。然しながら、平安末期になると復興を遂げ、白河天皇・鳥羽天皇からの崇拝を厚くして1132年には覚鑁が伝法院を建てて隆盛に赴いた。空海の入定処として多くの参詣者を集め、大師信仰・納骨信仰の中心となるなど、この頃に成ると宗派を超えて納骨、造塔の風習が盛んとなり、真言密教の典籍を主とした高野版の開版なども始められた。戦国時代には織田信長の家臣の武将の攻撃も受け、豊臣秀吉も当初攻撃を試みたが、その応対をした応其に帰依して保護を加えるようになった。全山は12区に分かれ、中心部は壇場と呼ばれ金堂・根本大塔がある。また奥の院には空海の遺体を安置しており、経蔵には高麗版一切経が納められている。金剛峯寺本坊は秀吉が寄進した青巌寺で、大建築の主殿・書院となっている。また、不動堂は平安時代の和様建築の様式を伝える鎌倉時代初期の名作で、高野山最古の現存する建築となっている。



≪貫之筆とされてきた理由≫
紀貫之自筆本が三本存在し、帝と后宮に奉る二本、家に止る一本(貫之の娘の手習い用の手本とした一本で、後に崇徳天皇に奉られる)がその後の当時の書写本の記載からその存在が確認されており、当時において自筆本が存在していたことによる。藤原清輔筆『袋草紙』によると
   
ようめいもんいん         おうじょ さだこないしんのう
T、陽明門院(三条天皇の皇女禎子内親王)御本【貫之自筆、序無し・全20巻】 ⇒1142年11月火事にて消失。 
ちゅうぐうよしこ  ふじはらのなりのぶてい   つちみかどてい
  醍醐天皇に奏上された奏覧本。藤原道長の「御堂関白日記(長和二年四月十三日条)」によると、三条天皇の中宮妍子が藤原斉信邸から土御門邸に帰る途中琵琶第に立ち寄って姉の皇太后彰子を訪ねた折、斉信からの贈物である貫之自筆の手本をそのまま皇太后(陽明門院の母后が)に献じたとある。また栄花物語によると貞子内親王の御裳着の際に「円融院より一条院に渡りける物」としての貫之自筆本の古今集と兼明親王の後撰集、小野道風筆の万葉集其々20巻セットを手習の為の手本として皇太后彰子より贈られたという事になっている。

   
おののこうたいごうぐう   ふじはらのよしこ ごれいぜいてんのう
U、小野皇太后宮(藤原歓子・後冷泉天皇の皇后)御本【貫之自筆、仮名序在り・全21巻】 ⇒皇太后の御所火災にて焼失。
(詳細不詳、前田家蔵古今集下冊見返しより)
  若狭守藤原通宗本の奧書に小野皇太后所有の貫之自筆本を一字も違えず原本さながらに書写した。とあり、前田郁徳会所蔵の清輔本古今集にも同様の記述が有る。
         
ひだりのおほいまうちぎみみなもとのありひと                           きよすけこきんしゅう
V、花園左府(左大臣源有仁)御本【貫之妹自筆、仮名序在り・全21巻(妹=妻、清輔古今集の奧書には貫之自筆とあり)】
  飛鳥井雅縁の「諸雑記」より藤原教長の書写と確認できる今城切古今集の奧書に花園左大臣源有仁から崇徳天皇に献上した貫之妻自筆本を書写したものとある。教長の「古今集註」によっても、輔仁親王から有仁に渡り讃岐院御在位の時にこれを献上している。清輔古今集の奧書から正本は冷泉院左府に在り、閑院東宮大夫(藤原実季)本から伝えられたものとある。

の三本となる。以上何れにも真名序は存在しておらず、序がないか仮名序が存在しているのみである。元々奏覧本には序(仮名序)しかなく真名序は後で付け加えられていたものだという事が想像される。宮内庁書陵部蔵本の「俊成本古今集」の奧書にも家伝の秘蔵本として、貫之自筆本である紀氏家正本を伝えていた。是は巻頭に仮名序が有るのみで真名序の無いものであった。ところが俊成の師匠である藤原基俊の持つ書写本には巻頭に真名序、次に仮名序が有ったと云われその真名序は基俊自身が書き加えたものだということである。当時まだ知識人の間では、正式文書には真名を用いるという風習が根強く残っていたことが窺える。

                         こうたいごう あきこ      たけこ
※中宮妍子は藤原道長の次女、長女は皇太后彰子。三女威子が後一条天皇の皇后である。三女を入内させた頃に詠んだ歌が、「この世をば我が世と思ふ望月の欠けたることも無しと思へば」となり、権力争いの頂点に立ったことを喜んだと云われている。
 
ふじわらのさねすえ      ふじわらのきんすえ    だいごてんのう   おうじょ やすこないしんのう
※藤原実季の曾祖父藤原公季の母が醍醐天皇の皇女康子内親王である。おそらくはこの時に手習の手本書として伝授されていたものと推察される。

ふじわらのもととし
藤原基俊;平安時代後期の歌人、歌学者でもある。同じく歌人で金葉和歌集撰者の源俊頼とは相対し、保守的な立場をとる。万葉集に解釈の為の補助としての訓点を付けた一人でもあり、藤原俊成には古今集の訓釈を伝えている。編著に「新撰朗詠集」、自家集に「基俊集」がある。(生年?〜没年1142年) 
                   



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