写真をクリックすると拡大画面になります 昭和初期模本
青グレー・蓮唐草具引剥奪唐紙料紙一葉分
蓮唐草(はすからくさ) |
料紙 具剥奪唐紙 『蓮唐草』 巻子本 本阿弥切 古今和歌集巻第十四 恋歌四 解説及び 使用字母へ |
||
具剥奪唐紙『蓮唐草』(元は具引唐紙が経年使用により部分剥落したもので、具引剥奪唐紙ともいう。) この部分では読人は縦に真っ直ぐ書き、歌はやや斜めにして段落を多くとり、歌一首を約二行に収めて書くという珍しい手法で書かれている。 歌番号は元永本古今和歌集での通し番号(歌の一部が異なっている場合も同じ番号で記載) ( )内の歌番号は小松茂美氏監修「本阿弥切古今集」(二玄社発行)の通し番号(類推) かな 使用字母 解釈(現代語訳)へ
「爾」は「尓」とすることも。 「與」は「与」とすることも。 「个」は「介」とすることも。 現代語訳 解釈 解説及び使用字母へ |
解説右側は 使用字母 左側のひらがな中漢字の意味の通じるものは漢字で表記 □は判読不能の文字 こ こ ろ あ き □□□之□□ この部分のこころはおそらく漢字の「心」一文字と思われる。 ページ ![]() ![]() |
![]() かははらのひだりのおおいまうちぎみ かはらのおほきおおいまうちぎみ = みなもとのとおる 河原左大臣;河原太政大臣=源融。平安時代前期の貴族で、嵯峨天皇の皇子。源姓を賜り仁明天皇の養子となる。官位は左大臣皇太子傳。賀茂川の畔、六条河原に壮麗な邸宅(河原院)を構えたので河原左大臣と呼ばれていた。河原院は陸奥の塩釜を模したとされ、毎月30石の塩を池に運び入れ、塩屋で焼く煙が立ち昇ったと伝えられている。晩年は嵯峨の清涼寺で暮らし、霞を眺めながら過ごしたとされている(山荘棲霞観)。生年822年~没年895年 しのぶもぢずり 忍捩摺;忍草の様なモジズリの意か。或は忍ぶモジズリの意か。北海道から九州まで日本全土に分布し、芝生などの日当たりの良い草地で草に紛れて隠れる様に生えるラン科の多年草。細長い広線形の葉で花穂の無い時期は5~10cm程度でノキシノブと姿が似ている。晩春~夏にかけて20~40cm程の花穂を出し、淡紅色で5mm内外の小花を一列にしてらせん状に捩った状態で付けているのでこの名がある。ネジバナともいう。捩じれて見え隠れする花を揺れ動く心に重ねたものか。 しのぶずり 忍摺り;摺り衣の一種。陸奥の信夫郡から産出した忍草の茎や葉で不規則に乱れた模様を布に摺り付けた物といわれ、狩衣などに用いた。これを指して「しのぶもじすり」とも云われるとか。 おののこまち 小野小町;平安中期の歌人で、六歌仙・三十六歌仙の一人。古今和歌集の代表的歌人で、恋愛歌に秀作が有り、柔軟で艶麗な歌が多く詠まれている。小野篁の子で出羽郡司となった小野良真の娘に生まれる。文屋康秀・凡河内躬恒・在原業平・安倍清行・小野貞樹・僧正遍照らとの贈答歌が有り、仁明・文徳天皇朝頃に活躍した人と知られる。後の世に歌の才能優れた絶世の美女として七小町などの伝説があり、小町塚や小町誕生の井戸など各地に逸話が残る。古今集には約60首が収録されている。 しもつきのをむね しもつけ しもつけの けぬのくに 下野雄宗;詳細不明。「下野」は「下毛野」の略。下毛野は東山道八か国の一つ、野州の旧国名で今の栃木県に当たる地域。毛野國が「上毛野」と「下毛野」とに分けられてできた国名。恐らくこの地域から出た豪族の中の一人と思われるが、人物の資料無し。歌もこの一首のみ。 きのつらゆき 紀貫之;平安時代前期の歌人で歌学者でもあり、三十六歌仙の一人でもある。歌風は理知的で修辞技巧を駆使した、繊細優美な古今調を代表している。醍醐・朱雀両天皇に仕え、御書所預から土佐守を経て従四位下木工権頭に至る。紀友則らと共に古今和歌集を撰進する。家集に「貫之集」の他、「古今和歌集仮名序」、「大堰川行幸和歌序」、「土佐日記」、「新撰和歌(撰)」などがある。生年868年~没年945年頃 いせ 伊勢;平安中期の歌人で三十六歌仙の一人。伊勢守藤原継蔭の女(娘)で宇多天皇の子供(行明親王)を産んで伊勢の御とも称されたが、皇子は早くに亡くなってしまう。同じく三十六歌仙の一人である中務の母でもある。元々は宇多天皇の中宮温子に仕えていたが、やがて天皇の寵愛を得る事となった。更に後には敦慶親王と親しくなり生れたのが中務となる。古今集時代の代表的な女流歌人で、上品で優美な歌を得意として古今和歌集以下の勅撰集に約180首もの歌が残る。生没年不詳、877年頃~938年頃。 ページ ![]() |