寸松庵(寸松庵色紙・古今和歌集抄本) 巻一 春上      戻る 寸松庵色紙 一覧へ
 具引唐紙『亀甲紋』(蜜柑茶色)「年経れば」  田中親美氏作模写本

寸松庵色紙は古今和歌集の四季の歌を精撰して書写したもので、元は粘葉本と思われる冊子に書写されたものが分割され、色紙の形に残ったもの。佐久間将監が京都大徳寺の離れ寸松庵で愛玩していた事により、江戸の初めに寸松庵色紙と名付けられたもの。元々堺が繁盛していた頃に南宗寺の襖に三十六枚の色紙が貼られており、その内の十二枚を寸松庵に譲り受けたもの。残りの幾つかは烏丸光弘が譲り受けている。
茶掛けとして古筆が持て囃されてくると、この小さな色紙もその散らし書きの美しさからやがて陽の目を見ることとなり、後の世に高値で取引されるに至った。




                かな                                水色文字は使用時母

寸松庵色紙 春上 『としふれば』 (蜜柑茶色)
11.8cmx12.9cm

    さきの大まうち君

  としふれば よはひ

  はおいぬ しかはあれ

  ど、 花をしみれば も

  のおもひもなし


      
使用時母

     左支乃大万宇知君

  東 之 不 礼 者 與波比

  盤於以奴 志可者安礼

   止、花遠之三礼者 毛

   乃 於 毛 悲 毛那 之

                           前大臣
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 年経れば齢は老いぬ然はあれど、花をし見れば物思ひも無し

年月が経てば年齢(人生)は重なる(衰えてゆく)物ではあるのだが、花だけを見ていれば思い煩うこともないのだよ。

この句の詞書
「染殿の后の御前にかめにさせたる桜花を見て」

(文徳天皇に嫁いだ娘の前で、花瓶に生けられた桜の花(栄華)を見ていれば、この老い先に何の憂いも御座いませんよ。)との意と捉えられる。


蜜柑茶色具引唐紙・白雲母『亀甲紋』(一重亀甲・全面)
                                  高橋義雄氏旧蔵

 漢字の意味の通じるものは漢字で表記
 一行は一行に、繰返しは仮名で表記
「與」は「与」とすることも、「礼」は「禮」とすることも。

さきのおほまうちぎみ
前大臣;藤原義房のことか。
      
ふじはらのあきらけいこ
染殿の后;藤原明子のこと。(清和天皇の母君)



写真では確認できないが、亀甲紋が施されている。

蜜柑茶色;赤・黄丹などとすることも。
 右の写真はこの箇所に該当する清書用臨書用紙      上製       普通清書用
 寸松庵色紙 具剥奪唐紙(蜜柑茶色) 清書用 臨書用紙 拡大へ 寸松庵色紙 具剥奪唐紙(蜜柑茶色) 清書用 臨書用紙 拡大へ
清書用 蜜柑茶色具引唐紙・白雲母『亀甲紋』


                                     たっちゅう               しゅうほうみょうちょう
大徳寺;
京都市北区紫野にある臨済宗大徳寺派の大本山で、広大な敷地にいくつもの寺(塔頭)が散在し山号は竜宝山。宗峰妙超の大徳庵に始まり、開基は赤松則村。花園上皇・後醍醐天皇の祈願所でもあった。15世紀には一休さんらにより再興。壮大な造の建築と美しい庭園が多く、貴重な美術品や壁画・障屏画などを多く遺す。千利休・小堀遠州らが庵を結んだことでも有名。
然し乍ら幕府との繋がりが強かった事を快く思っていなかった明治政府によって、寺院の縮小を余儀なくされることとなり多くの院や庵が取潰されている。
寸松庵はその塔頭の一つでありその離れに茶室寸松庵があったが、後に龍光院に併合され、茶室の寸松庵も売りに出されることとなった。

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