巻子本 秋萩帖 (紙背書:淮南子)     戻る 『秋萩帖』巻子本 一覧へ 

えなんこうれつへいりゃくかんこくだいにじゅう     .
   元巻子本表(淮南鴻烈兵略韆e第廿) (両面加工)昭和初期の模写本

秋萩帖の紙背に書いてある書跡で元の巻子本の表書き、筆者は不明。日本で書写された物か、中国で書かれた物の舶載品なのかも不明であるが、佐佐木氏の解説では「この淮南子は、湖南内藤博士の談によるにその巻廿の兵略の巻なるは日本見在書目の三十一巻本に符合し、また宋本以下の重大なる脱落を補ひて復舊することを得る善本にして、現存せる淮南子最古の鈔本なりと云ふ」とある様に貴重な資料でもある。
この「淮南子」漢の淮南王劉安が学者を集めて作ったとされる書で、現存するもの21篇である。老子、荘子の説に基づいて周末期以来の儒家、兵家、法家などの思想を採入れた、逸事、治乱興亡から雑談に至るまで、雑多な内容を記載した百科事典の様な書物。

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     第一紙(第二十紙背)  
     薄香色(うすごういろ)
  古筆臨書 巻子本『秋萩帖』 紙背 淮南子 (拡大へ)  
全長23.7cmx846.5cm 
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写真右端に白っぽく見えるのが奥付、左端の灰色に見えるのが秋萩帖の第十九紙です。
左端上の墨入れが、伏見天皇の花押とされているものです。
この巻子本は昭和初期(昭和6年)の模本であり、霊元天皇から有栖川宮家、高松宮家へと伝えられている零本を可能な限り原本に忠実に染めた料紙に模写したものです。現在巻子本原本はは東京国立博物館所蔵となております。
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   紙背 第一紙     淮南鴻烈兵略韆e第廿           古筆臨書 巻子本『秋萩帖』 紙背 淮南子 (右部分拡大へ)
秋萩帖第二十紙背
伝小野道風筆
秋萩帖紙背


淮南子

筆者不明

薄香色
かなり見辛いですが、ご了承下さい。


     第一紙 淮南鴻烈兵略韆e第廿 (秋萩帖 第二十紙背)古筆臨書 巻子本『秋萩帖』 紙背 第一紙(第二十紙裏) 伝小野道風筆
秋萩帖紙背


淮南子

筆者不明




 第一紙 淮南鴻烈兵略韆e第廿  右8行 (秋萩帖 第二十紙背) 

 
     第一紙 淮南鴻烈兵略韆e第廿 (秋萩帖 第二十紙背)

古筆臨書 巻子本『秋萩帖』 紙背 第一紙(第二十紙裏)

伝小野道風筆
秋萩帖紙背


淮南子

筆者不明


 第一紙 淮南鴻烈兵略韆e第廿  左8行 (秋萩帖 第二十紙背) 
                            *1 
かおう*2
左端上部第二紙との継ぎ目にあるのが、伏見天皇の花押とされているものです。


*1                                         ひろひと
伏見天皇
;鎌倉時代後期の天皇で、後深草天皇の第二皇子であり、名を煕仁と云う。持明院殿とも称される。(1235〜1317)

鎌倉時代屈指の能書としても名を馳せており、行成に勝るとも劣らないほどと称えられてもいる。(在位1287〜1298)

*2                 かきはん              はんぎょう 
花押;署名の下に書く判の事で書判とも言い、中世の頃には判形或は単に判とも呼ばれた。元々は楷書体ではっきりと判る様に自署し
                                    
そうみょう  
ていたが、何時の頃からか崩れて書くようになり草書体で書いた草名が生まれ、更に進化して象形化したものが花押である。

多くは自己の漢字の一部を取って組み合わされたもので記されていたが、後には名字と関係のないものまで現れた。

鎌倉時代以降には、花押の印章化が起こり、花押を版刻して墨を塗って押す物などが現れ、次々と増えて今日の落款に至る。



持明院殿;後深草天皇が譲位後に、京都の持明院を御所として隠居したことから後深草天皇の血統を持明院統と呼ぶ様に為った。

時の隠居の愛称。書道の持明院流とは異なるが、持明院の名の由来は同じ寺院によるもの。

                                                   
じゅぼくどう
持明院流
;持明院基春を祖とする和様書道の一派で、室町頃に世尊寺流から分かれて入木道宗家として宮廷を中心として続けられた。


世尊寺流;藤原行成を祖とする和様書道の一派で、小野道風の書を手本とし、それまでの漢字の色濃い万葉仮名からかなり崩した草仮

名の書法を確立していった。鎌倉時代までは権威を欲しい侭にしていた。

じゅぼくどう
入木道
;「王羲之の筆によるその書は墨痕が木に三分も染み込んだ」といわれる故事から、書道の事を指して言う。