寸松庵(寸松庵色紙・古今和歌集抄本) 巻二 春下      戻る 寸松庵色紙 一覧へ
 具引唐紙『茅』(薄渋黄土色)「吉野川」   田中親美氏作模写本

寸松庵色紙は古今和歌集の四季の歌を精撰して書写したもので、佐久間将監真勝が京都大徳寺の塔頭の一つ龍光院の子院寸松庵の離れ寸松庵で愛玩していた事により、寸松庵色紙と名付けられたもの。元々堺が繁盛していた頃に南宗寺の襖に三十六枚の色紙が貼られており、その内の十二枚を寸松庵に譲り受けたもの。残りの幾つかは烏丸光弘が譲り受けている。
この寸松庵、東屋と云うには大きく立派なお寺である。南宗寺の住職は大徳寺に出世するのが習わしで、将監が大徳寺の西の端に寸松庵を立てた際に江月宗玩を呼寄せ開祖とし、寸松庵の一部に茶室「寸松庵」をこしらえた。宗玩は元々南宗寺所縁の住職であり、それが縁で手に入れたものと窺える。




                かな                                水色文字は使用時母

寸松庵色紙 春下 『よしのがは』 (黄茶色)
12.7cmx13.1cm

    つらゆき

  よしのがは きしのや

  ま ぶ き ふ く か ぜ

  に、そこのかげさへ う

  つろひにけり


      
使用時母

      川良由支

  夜之乃可者 支之乃也

  末 不 幾 布 久 可 世

  爾、所己乃可遣佐部 宇

   川 呂 比 爾 个 利

                           紀貫之
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 吉野川岸の山吹ふく風に、そこの影さへ移ろひにけり

吉野川の岸辺に山吹が咲いている。水面を吹き抜ける風に、そこに映った山吹の姿もゆらゆらと揺らめいていることよ。



薄渋黄土色具引唐紙・白雲母『茅』(葉のみが下から数枚)  岡本氏旧蔵

 漢字の意味の通じるものは漢字で表記
 一行は一行に、繰返しは仮名で表記
「爾」は「尓」とすることも、「个」は「介」とすることも。




写真では確認できないが、茅が施されている。

薄渋黄土色;白(素色)・薄茶などとすることも。
 右の写真はこの箇所に該当する清書用臨書用紙(上製のみ)
これまでの清書用には入れられていない柄
     上製        普通清書用
   寸松庵色紙 具剥奪唐紙(薄渋黄土色)『茅』 清書用 臨書用紙(上製) 拡大へ 寸松庵色紙 具剥奪紙(薄渋黄土色) 清書用 臨書用紙 拡大へ
                     ちがや
清書用 薄渋黄土色具剥奪唐紙・『茅』

こうげつそうがん                           しゅんおくそうえん                たっちゅう
江月宗玩;
父は堺の商人で茶人の津田宗及。幼少より春屋桑園に師事し15歳の時に大徳寺の塔頭大仙院で剃髪する。この時師僧から宗玩の名を頂き、1606年に黒田官兵衛の菩提寺塔頭龍光院を開祖。1621年に将監に呼ばれて子院寸松庵を開祖する。寛永19年将監が死去すると翌20年(1643年)後を追うようにこの世を去る。御年69歳。小堀遠州は甥に当る。

りょううこういん
龍光院;黒田長政の開基で父如水(孝高)の菩提寺として大徳寺の南西に建立。後に佐久間将監の開基により子院の寸松庵を院の南に設ける(塔頭寸松庵は将監の没後本山の北西の広い地に移されたが、後明治二十二年に龍光院に併合される)。高松宮家・有栖川宮家の菩提寺でもある。
塔頭寸松庵の詳細については『扶桑鐘銘集 天』に治められる『寸松庵鐘銘』の項を参照されたい。

なんしゅうじ
南宗寺;
臨済宗大徳寺派の寺院、龍興山南宗寺。大徳寺の住職古嶽宗旦が当時堺に在った一小院を南宋庵と付けたのが始まり。その後、大林宗套が宗旦に師事して南宋庵に入り、その後に大徳寺の住職に出世することとなり再び戻って三好元長の菩提寺として1557年に移築して南宗寺と改名した。夏の陣の戦火に落ちるが沢庵和尚により再興、千利休・武野紹鴎等のゆかりの寺。


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