三十六人集(西本願寺本)
 人丸集 (上) 補写本(人麻呂集) 装飾料紙(清書用臨書用紙)    戻る 『三十六人集』 粘葉本 一覧へ


柿本人麻呂の家集で、筆者は藤原定実と推定され、同じく三十六人集中の貫之集上と同筆とみられる。現存する伝本は断簡である室町切の二葉のみ僅かに十二首であるが、この歌をそのまま含む書陵部蔵本から類推すると、その歌数は全部で二四一首と推定される。本集には江戸初期に照高院道晃法親王による補写本が有り、上下二巻に分けられている。上巻は六十五首、下巻には二三七首が収められている。本集が完本であるとするなら、書陵部蔵本よりも六十一首少なく、人丸集中最も少ない歌数の伝本であったと云うことになる。他の伝本は同系統と思われる歌仙本で書陵部蔵本より二首少ない三百首、是とは別に部類されている系統の類従本人麿集・書陵部蔵本別本などで六四三首程度のものと更に歌数の多い七六五首のものとが知られている。(但し、人麻呂の歌と判っているものは少なく、他人の歌も多い。半数近くが詠み人知らずのものと云われる。)

補写本の料紙は平安時代のものと同様に装飾料紙を使用しているが、具引唐紙の柄や泥下絵の趣は異なる。上巻で六枚のみと漸う帖としての体裁を整える程度にとどまり、下巻で十八枚となる。尚上巻には破り継1枚、切継1枚、下巻には破り継4枚、切継2枚が使用されている。全料紙組順へ)

人丸集(人麻呂集) 『切継』 染紙・金銀砂子 書拡大へ 三十六人集 具引唐紙  『丸唐草』 (人丸集) 拡大へ 三十六人集 染紙  『雲紙ぼかし』 (人丸集) 拡大へ 三十六人集 染紙 薄茶 『飛雲』 (人丸集) 拡大へ 三十六人集 染紙 茶・灰緑 破り継『金銀砂子』 (人丸集) 拡大へ  人丸集 断簡 『室町切』 染紙・金銀砂子 書拡大へ
 切継 金銀砂子 唐紙 丸唐草  染紙 雲紙ぼかし  飛雲 金銀砂子  破り継 金銀砂子  人丸集 断簡  

三十六人集で使われております装飾料紙の内の人丸集上巻の一部です。人丸集 下巻こちら

三十六人集 染紙 茶・灰緑 破り継『金銀砂子』 (人丸集)   補写本 人丸集上  『破り継』 第三紙 書拡大へ
切継料紙の書手本
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解説及び使用字母
人丸集 上巻第三紙 破り継料紙 茶・渋草色『金銀砂子』 (半懐紙)
 

 三十六人集 染紙 茶・灰緑 破り継『金銀砂子』 (人丸集) 中央下側部分拡大
 
 人丸集 上巻第三紙 破り継料紙 茶・渋草色『金銀砂子』
中央下側破り継部分の拡大です。
渋草色の川の部分に歌34の『河の瀬に渦巻く見れば玉藻かも、散り乱れたる河の船かも』か書かれてます。
(この部分では川に沿って書が写真上部から右へ右へと5行に渡って書き下げられています。)
具引染紙、茶色及び渋草色の金銀砂子振です。実物では花鳥折枝ではなく十数羽の千鳥が飛んでいます。
   
 三十六人集 染紙 茶・灰緑 破り継『金銀砂子』 (人丸集) 中央上側部分拡大
 人丸集 上巻第三紙 破り継料紙 茶・渋草色『金銀砂子』
中央上側破り継部分の拡大です。写真が不鮮明ですがご了承ください。
ここの渋草色の川の部分に歌35の詞書『吉野山に御幸する時に』か書かれてます。
(この部分では通常通り右から左への4行の書となります。)


三十六人集 染紙 茶・灰緑 破り継『金銀砂子』 (人丸集 上)  書手本
解説及び使用字母 
 人丸集・破り継(金銀砂子)書手本 縦6寸7分、横1尺5分5厘(補写本・人丸集上 第三紙)


歌番号は人丸集での通し番号           青色文字は使用字母

31
 ゆふかけて いのるみむろの 神さびて、
 妹にはあはず 人めおぼみそ

32
 ももへなる よそのしまべを こぐ
 船に、のりにし心 わすれかねつも

33
 ことしげき さとにすまずは      船かも
 けさなきし、かりにた     たる かはの
          ぐ   かも,ちりみだれ
 ひて いなま   
34   みれば 玉藻
 しものを     河のせに うづまく

          
35
  よしのやまに   みれどあかぬ よし
    みゆき          ののや
      する      まの とこ
     時の          なめ
                   の、
          たゆる時なく
             ゆきかへりみむ


   いせのくににみゆきする時に京に
   とどめられてよめる

36
 みをのうらに ふなのりすらむ つまと
                もに、
 玉ものすそに しほみつらむか




31
 遊不可計弖 以乃留美武呂能 神左飛弖、
 妹爾八安者春 人女於保美曾

32
 毛々部奈留 與所乃之末部越 己久
 船二、能利爾之心 王春礼可禰川毛


 己登之計支 佐止爾春万須盤      船可母
 計左奈支之、可利爾多     多留 可者能
          く   可毛,知利美多礼
 飛弖 以奈万   
34   美礼者 玉藻
 之毛乃遠     河乃世爾 宇川万久

          
35
  與之能也万爾   美礼止安可奴 與之
    三由支          能々也
      春留      万能 止己
     時乃          那女
                   能、
          多由留時奈久
             由支可部利三武


   以世能久爾々美由支春留時爾京二
   止々女良礼弖與女類

36
 美遠能宇良爾 布那乃利春良无 川万止
                       毛爾
 玉毛能春曾爾 之本三川良无可


「爾」は「尓」とすることも。
「个」は「介」とすることも。         
歌番号34は下から上に斜め右に読み上げる。
「弖」は「天」とすることも。        
(写真では破り継部分川の中、中央から右下にかけて)
「與」は「与」とすることも。
( )は次項にあり。

みかど         おは        つか まつ
帝、竜田川のわたりに御座します御供に仕う奉りて、

31
(榊の枝に)木綿を懸けて祈りを捧げる神社は神々しくて、貴方にはお会いにならないで人目の事を考えなさいな。

ゆふ
木綿;楮の皮の繊維から作った糸状のもの。幣として榊などにかけて使用。

みむろ
三室;貴人のお住まい。また、神を安置し奉る室(=神社)。

かむ
神さびる;神々しく見える。おごそかで重々しく厳粛である。古びる。


らし;確実性のある推定を示す助動詞。間違いなく起こっていると推定する。

32
幾重にも重なる余所の島々の辺りで櫓を漕いで(そこを通って)いる船の様に、(貴方の事が)ぴったりとくっ付いて離れない心の如くに忘れ去る事なんて出来ませんよ。

33   うるさ
人の噂が煩く聞こえてくる里には住まないのであれば、(当に)今朝も鳴いていた雁と同じ様に過ぎ去ってしまえば良かったですのに。

とき
言繁き;人の噂が煩い。「言繁し」の連体形。


34
河の瀬に渦巻いている様に見えているのは玉藻で在ろうか、それとも波の上を乱れ漂う様に(危うげに)揺れ浮かんでいる小舟なのだろうか。(心乱れる自身の心情を歌ったもの)
第三句までは「乱れたる」を導き出す為の「序詞」。

たまも
玉藻;藻の美称。美しい藻。「刈る」「なす」「よし」などを伴い枕詞をなす。

みゆき                             ぎょうこう          ごこう
御幸;天皇、上皇、法皇、女院などの外出。中世以降は天皇の外出を行幸、上皇・法皇・女院には御幸を用いた。

35
ずっと見ていても見飽きる事のない吉野川の常滑の様に、絶えることなく(この吉野離宮を)何度でも来ては眺めてていたいものだ。

常滑;岩に何時も生えている水苔。又川の中で水苔が付いていつでも滑らかな岩床。多くの場合永久なことにかけて使われる。

36
澪の浦で妻と共に船に乗って出かけようとしていると、(なかなか船が現れないので)このままでは玉裳の裾に潮が満ちてきてしまうだろうか(満ち潮で濡れてしまいはしないだろうか)。

たまも
玉裳;裳の美称。平安時代に正装の女性が袴の上に纏った裾を長く引いた衣で、腰部から下の後方だけに付けられた。


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かきのもとのひとまろ
柿本人麻呂;万葉歌人で、三十六歌仙の一人。天武・持統・文武天皇に仕え、六位以下ではあるが舎人として出仕、石見の国の役人となり、讃岐の国などへも出向いている。石見の国で没っしたとされるが、定かでは無い。序詞・枕詞・押韻などを駆使して想・詞豊かに歌を詠み、特に長歌に於いては深く心に訴える様な厳かで格調高い作風を好んだ抒情歌人として君臨。後の人々に、山部赤人と共に歌聖と仰がれた。生没年不詳。

しょうこういんみちあきほうしんのう
 ごようぜいてんのう             ふるいちたねこ
照高院道晃法親王;後陽成天皇の第十一皇子で、母は古市胤子(清原氏)、僅か9歳にして聖護院に入る。5年後の1626年14歳の時に親王宣下を賜り、第28世聖護院門跡となる。4年後の1630年には位階を二品に叙せられた。1658年46歳の時
照高院に移って同門跡となり、堂宇の復興なども行った。茶道・書画・和歌などに秀でた。人丸集の補写は1658年〜1663年頃の事と考えられている。 生1612年、1679年没。

しょうこういん       どうちょう
照高院;天台宗の僧道澄が開基した寺で、元は東山妙法院に有ったが、1614年に幕府の権力争いにより起きた方広寺鐘銘事件に連座して取り壊された。1619年、後陽成天皇の弟興意法親王が幕府に再興を陳情して許しを請い、伏見城の一部二の丸松丸殿の建物を譲り受け、現在の北白川丸山町付近に所領一千石として再建した。使われている紋章から照高院雪輪殿とも呼ばれた。後には聖護院門主の退隠所となり、道晃法親王も門跡となる。明治になり、門主智成法親王が還俗して宮家(北白川宮)を称し、宮家の東京移転に伴い堂舎は廃され、後跡地に石碑のみが設置される。


※人麿集;久曽神昇博士によると本集の人麿集は歌数二四三首ほどと推定されている。
尚、人麿集の補写は後西天皇在位の時西本願寺から三十六人集を召し上げた際に三集足りなかった事から是を補写させたことが、飛鳥井雅章による三十六人集の書写本(1670年)の奥書に記されている。
残りの二集は業平集(日野前大納言弘資卿補写)と小町集(烏丸前大納言資慶卿補写)である。

清原氏;天武天皇の皇子で舎人親王の孫の小倉王・貞代王らが、清原姓を許されたのに始まる血縁関係のある一門。


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人丸集(上)料紙組順

  紙順     料紙主仕様                          料紙特徴
第一紙   染紙(薄茶)『飛雲』
全面金銀砂子
 染紙(黄土色)に全面金銀砂子振り。飛雲は右上と左下の2か所。金銀泥で花鳥折枝が全体に描かれている。裏面も同様の薄茶地に花鳥折枝。右項裏面が第一項目の書き出し。
第二紙  染紙(薄茶)『古風雲』
全面金銀砂子
 染紙(薄茶色)に全面金銀砂子振り。左項上部と右項下部に古風雲ぼかし。裏面も同様だが、雲の形は大きく異なる。両面花鳥折枝金銀泥手描き。
第三紙  破り継
全面金銀砂子
 左項上部中央付近から右項下部中央付近にかけて斜めに破り継。中央破り継部分は1枚のやや濃い目の渋草色、右上と左下は同色で黄茶色。両面花鳥折枝金銀泥手描き。
第四紙   具引唐紙
三つ葉紋(薄茶具引)
 薄茶具引唐紙、三つ葉紋で平安時代には見られない柄、白雲母。裏面も同様。
両面花鳥折枝金銀泥手描き。鳥は無く蝶、梅ヶ枝、葵、紫苑など。
第五紙   切継『上下隅』
全面金銀砂子
 左上と右下の上下隅斜めに切継、左上はやや濃く、右下はやや薄い。
両面花鳥折枝金銀泥手描き。
第六紙   具引唐紙
三つ葉紋(薄茶具引)
 薄茶具引唐紙、三つ葉紋で平安時代には見られない柄、白雲母。裏面も同様。
両面花鳥折枝金銀泥手描き。鳥は無く蝶、梅ヶ枝、葵、紫苑など。

縹色の背景は破り継(又は切継)部分。約三分の一のものが破り継(又は切継)となっている。



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