三十六人集 能宜集 下 ギラ引唐紙『獅子唐草』(清書用臨書用紙)
大中臣能宜の家集で、上下二冊から成り、中は更に六巻の部立に仕立てられている。歌の総数は四八五首、その内の下巻帖で巻三〜巻六の歌数二八九首、料紙数にして三八枚(但し、第27紙・第28紙は第28紙を上にして二枚重ねて綴られている。)である。様々な装飾料紙が使われているが、継紙の物は少なく切継を伴った破り継が使用されている。料紙は下巻で38枚あり、継紙の料紙は下巻全部で6枚で、内重ね継は無く、破り継の一部に切継の入ったもの3枚、切継だけの物も無く、破り継だけの物3枚である。継紙は少ないが、ぼかし染、墨流し、金銀大小切箔・ちぎり箔ノゲ、彩色画等々、美しく凝った作りの装飾料紙も多い。
本巻は凡そ年代順となっており、下巻では巻三〜巻六となっている。(下巻料紙組順へ)
第二四紙『蜘蛛の巣』 | 第十四紙『小唐草』 | 第八紙『破り継・墨流し』 | 第六紙『獅子唐草』 | 第三紙『菱唐草』 |
第六紙 ギラ引唐紙『獅子唐草』
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具引唐紙『獅子唐草(繋丸紋獅子唐草)』(能宜集 下)(半懐紙) ギラ引唐紙『獅子唐草』の代用品としてご利用頂けます。 唐紙のもたらされた唐の国では、古来獅子は官位の栄達を祝福し邪気を除くものとして好んで用いられていた。また官位の師は獅子の獅と音が通じるからとも云われている。ともあれ三十六人集ではこの獅子唐草が最も多く使用されている(実に161枚も)。奈良時代には紫微中台が置かれ、太師も設けられていたことから日本でもこの思想が広まっていたと思われる。 |
写真は具引唐紙 獅子唐草です (繋丸紋獅子唐草) (祥雲丸獅子唐草) などとも言う。 |
第六紙ではギラ引唐紙 獅子唐草ですので、実際には地の胡粉部分と柄の雲母部分とが逆転しています。 実物は地が雲母引きで柄は胡粉打ちとなっております。 |
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写真は具引唐紙獅子唐草の柄部分の拡大です。 第六紙のギラ引唐紙『獅子唐草(繋丸紋獅子唐草)』に使用されている柄と同じものです。 花鳥折枝は実際のものとは異なり、似たような柄の物を使用しております。 |
写真は具引唐紙 獅子唐草です |
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能宜集 下 ギラ引唐紙『獅子唐草』書手本 縦6寸7分、横1尺5分5厘 第六紙 写真では不明ですが、地が光沢のある雲母引で柄は艶消しの胡粉柄となっております。 歌番号は能宜集での通し番号 青色文字は使用字母
「與」は「与」とすることも。 「礼」は「禮」とすることも。 「个」は「介」とすることも。 ( )内は前項に在り 229 住之江にある年月を経た松の木の数え尽くせない程の年を、繰返し繰返しやって来る波の如く数える事が出来ようか。 すみのえ 住江;住吉の古称。松の名所。 230 一体誰の為に渡り始めているのだろうか、この与謝の海を、いつの間にか年月が過ぎてしまいましたよ、天橋立に佇んでいると。(浦島伝説になぞらえて我が身の老いを歌ったものか。) よさのうみ 与謝の海;歌枕。京都府宮津湾の奥部に在り、天橋立の砂州で区切られた西側の海。風光明媚で、古くから浦島伝説で知られた所。 よをふる 世を経る;この世の経験を積む。年月を経る。 231 大井川を明けても暮れても流れ下らせる筏の(水に馴染んだ棹ではないが)、親しくなじんでいる人でもけなすのに他人の事なら尚更だ。(人に交われば意に反して言葉が他人の思惑に反応して、自分の心の表現が出来なくなるものだ。) せんざい 前栽;前庭の花木や草花の植込み。更にその草木までも云う。 232 女郎花が美しく咲き競っている辺りにじゃれ合い乍ら慣れ親しんでいると、道理をわきまえない露は何が心残りで(何が悲しゅうて私たちにまで)露を置くのであろうか。 むつ 睦る;打ち解けて親しみまつわる。親しみなつく。慣れ親しむ。 あやなし 文無し;空しい。取るに足らない。又は、道理に合わない。 |
おおなかとみのよしのぶ さかのうえのもちき みなもとのしたごう きよはらのもとすけ きのときふみ
大中臣能宜;平安中期の歌人で、伊勢神宮の祭主でもある。梨壺五人衆の一人で、三十六歌仙にも入る。坂上望城、源順、清原元輔、紀時文らと共に951年、三代集の第二である20巻もの後撰集(村上天皇の勅命による勅撰和歌集)を撰進する(成立年代は未詳、約1400首収められているが、ここに撰者の歌は無い)。能宜の歌は拾位遺、後拾遺集などに入る。正四位下、生921年、没991年。
なしつぼ へいあんきゃうだいり しげいさ せうやうしゃ うんめいでん れいけいでん
梨壺;平安京内裏の五舎の一つ、北東隅の桐壷(淑景舎)の南にあたる昭陽舎の別称。温明殿の北、麗景殿の東に在り前庭に梨が植えられていた事から梨壺と呼ばれた。この地で後撰和歌集の編纂と万葉集の訓釈を行ったことから、これに当たった五人を「梨壺の五人」と称した。
しびちゅうだい
紫微中台;皇后宮職の改称したもの。天平勝宝元年(749年)孝謙天皇の時、皇太后となられた光明皇后の意向を伝える為に、唐制に倣って設置された。757年、藤原仲麻呂が光明皇后・孝謙天皇に信頼され、紫微中台の長官となる。
ふじはらのなかまろ
藤原仲麻呂;紫微内相となった藤原仲麻呂は、橘奈良麻呂ら反対派を退けて政権を掌握し、女婿の大炊王が即位して淳仁天皇となると、官制を改め、大保(右大臣)となる。やがては恵美押勝の姓名を賜り、遂に太師(太政大臣)正一位に進んだ。(獅子唐草の好まれる所以とされる)
然しながら、孝謙上皇に重用されていた僧道鏡を疎んじ失脚させようと試みたが失敗し、764年に近江で殺される。生706年〜没764年。
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