三十六人集(西本願寺本)
業平集 飛雲料紙『全面金銀砂子振』(清書用臨書用紙)
ありわらのなりひら
在原業平の家集であるが、原本は断簡(尾形切)のみで八葉で歌17首、全体の詳細の確たるものは無く不明であるが、醍醐本などに依れば元は57首とみられる。西本願寺蔵補写本では58首で、これは日野弘資により寛文10年の江戸時代には既に書写されていた補写本である。唐紙は和製唐紙で表裏同柄、隈ぼかしを施したものも数枚ありこの場合表と裏でぼかしの様子が若干異なる。破り継・切継が有り、重ね継は使用されていない。全ての料紙に花鳥折枝は両面に描かれている。
第五紙料紙の飛雲料紙『全面金銀砂子振』になります。左下側に飛雲をあしらった全面金銀砂子振りとなっております。
(全料紙組順へ)
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第九紙 破り継 |
第八紙 染紙金銀砂子振 |
第六紙 切継(全面金銀砂子) |
第五紙 飛雲料紙 |
第三紙 破り継 |
第一紙 切継 |
第一紙裏 飛雲料紙 |
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破り継料紙の書手本 拡大へ 解説・使用字母へ |
業平集・飛雲料紙『全面金銀砂子振』 第五紙用料紙 半懐紙 縦8寸2分5厘、横1尺2寸 業平集実物よりも一回り大きくなっております(四方を少しずつ切り取って頂くと実物大になります。) |
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右上部分書拡大へ 表面のみの加工てす。 破り継料紙右上側部分 |
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業平集・飛雲料紙『全面金銀砂子振』 第五紙用料紙 半懐紙 縦8寸2分5厘、横1尺2寸 右上側部分、 |
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右下部分書拡大へ 表面のみの加工てす。 破り継料紙右下側部分 |
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業平集・飛雲料紙『全面金銀砂子振』 第五紙用料紙 半懐紙 縦8寸2分5厘、横1尺2寸 右下側部分、 |
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左上部分書拡大へ 表面のみの加工てす。 破り継料紙左上側部分 |
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業平集・飛雲料紙『全面金銀砂子振』 第五紙用料紙 半懐紙 縦8寸2分5厘、横1尺2寸 左上側部分、 |
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左下部分書拡大へ 表面のみの加工てす。 破り継料紙左下側部分 |
業平集・飛雲料紙『全面金銀砂子振』 第五紙用料紙 半懐紙 縦8寸2分5厘、横1尺2寸 左下側部分、 |
右上側部分 破り継料紙の書手本 拡大へ 解説・使用字母へ |
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なりひらしゅう . 業平集・第五紙、飛雲料紙 『安八天己之與』(縦6寸7分、横1尺5分5厘) 書拡大 右上側部分。 |
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書手本 右下側部分 |
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業平集・飛雲料紙『安八天己之與』 書手本 縦6寸7分、横1尺5分5厘 第五紙 書拡大 右下側部分、 |
臨書用紙は 表面のみの加工てす。 |
書手本 左上側部分 |
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業平集・飛雲料紙『安八天己之與』 書手本 縦6寸7分、横1尺5分5厘 第五紙 書拡大 左上側部分 |
臨書用紙は 表面のみの加工てす。 |
書手本 左下側部分 |
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業平集・飛雲料紙『安八天己之與』 書手本 縦6寸7分、横1尺5分5厘 第五紙 書拡大 左下側部分、 |
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なりひらしゅう 業平集・飛雲料紙『安八天己之與』 書手本 縦6寸7分、横1尺5分5厘 第五紙 裏面も同様の花鳥折枝銀泥描きです。 歌番号は業平集での通し番号 青色文字は使用字母 解釈(現代語訳)へ
「弖」は「天」とすることも。 「禮」は「礼」とすることも。 「邊」は「遍」とすることも。 「个」は「介」とすることも。 現代語訳 解釈 解説・及び使用字母へ
きのありつね ぎょうぶしょう きのなとら 紀有常;平安時代前期の貴族、裁判や処罰を司った刑部省の長官紀名虎の子で、仁明天皇〜清和天皇の三天皇の時に仕え、官位は従四位下で、晩年は周防権守として地方に没した。生年不詳〜没年877年。 めのおとうと 妻の妹;「つまのいもうと」のこと。「おとうと」は古くは男の兄弟で兄が弟を、女のきょうだいで姉が妹を呼ぶ場合に用いた。女のきょうだいが男のきょうだいを呼ぶときには「せ(兄)」、男のきょうだいが女のきょうだい(姉妹)を呼ぶときには「いも(妹)」が用いられた。平安時代になるとそれぞれ「せうと」「いもうと」と呼ぶようになった。それぞれ「せひと(兄人)」のウ音便、「いもひと(妹人)」のウ音便となったもの。 むらさき 紫草;ムラサキ科の多年草日当たりの良い草原に自生し、夏に白い小花を開く。根は紫色で、草木染の重要な紫色の染料とした。またこの根を乾燥させたものは生薬の紫根で、解毒剤や皮膚病の薬としていた。昔は武蔵野に多く自生していた。 歌28は (行き帰りに見間違いしてしまったばかりに涙を流す羽目になりまして、私の氏族の勢いはもうありませんですよ。)との意とも取れる。 ![]() ![]() |
在原業平;平安初期の歌人で、六歌仙、三十六歌仙の一人。平城天皇の第一皇子である阿保親王の第五皇子で、在五中将とも呼ばれた。兄の行平と共に826年に在原性を賜った。伊勢物語の主人公と混同され、伝説化されて容姿端麗、情熱的な和歌の名手で、二条后との密通や伊勢斎宮との密通などより、色好みの典型的な美男子とされ、能楽や歌舞伎或は浄瑠璃などの題材ともなった。紀有常の娘を妻とし、官位は蔵人頭、従四位に至る。生825年、880年没。
母は桓武天皇皇女の伊都内親王である為、摂関家である藤原氏には少なからず不満を抱いていたと思われる。
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