三十六人集選集 能宜集 上 重ね継・切継(清書用臨書用紙)   戻る 『三十六人集』 粘葉本 一覧へ 

大中臣能宜の家集で、上下二冊から成り、中は更に六巻の部立に仕立てられている。歌の総数は四八五首、その内の上巻帖で巻一〜巻二の歌数一九六首である。様々な装飾料紙が使われているが、継紙の物は約3割程有り切継を伴った破り継が使用されている。料紙は上巻だけで29枚あり、継紙の料紙は上巻全部で9枚で、内重ね継は1枚、破り継の一部に切継の入ったもの5枚、切継だけの物も1枚、破り継だけの物2枚である。装飾料紙として、ぼかし染、墨流し、金銀大小切箔・ちぎり箔ノゲ、彩色画等々、美しく凝った作りの装飾料紙も多い。是は能宜集唯一の重ね継の料紙である(上巻料紙組順へ)

能宜集 装飾料紙 具引唐紙 『七宝紋』 拡大へ 能宜集 装飾料紙 『重ね継・切継』 拡大へ 能宜集 装飾料紙 具引唐紙 『菱唐草』 拡大へ 能宜集 装飾料紙 『破り継』 書拡大へ 能宜集 装飾料紙 『梅車』 書拡大へ
第二一紙『七宝紋』   第十二紙『重ね継』    第十紙『菱唐草』  第三紙『破り継』   第一紙『梅車』 


能宜集 上 第十二紙 重ね継・切継

 三十六人集 『能宜集』 重ね継・切継 能宜集 重ね継 『右側に緑の切継』 書拡大へ
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 重ね継・切継(右側に緑の切継)(能宜集)(半懐紙)
右側の緑色の切継部分と、左側の切継部分を入替えてみて下さい。
ほぼ繋がりますね。平安時代の職人は最初からこの様なデザインを考えていたのでしょうか?それともアクシデントの結果の産物なのでしょうか。
皆さんはどう思いますか?
 
 三十六人集 『能宜集』 重ね継・切継   
   



三十六人集 『能宜集』 重ね継・切継 第十二紙  使用字母
及び解説
 重ね継・切継(能宜集)書手本 縦6寸7分、横1尺5分5厘 第十二紙

歌番号は能宜集での通し番号                    青色文字は使用字母
   方にゆづりつけはべりていりてのの
   ちものいはせ侍てすのうちより
   かわらけにひかげをいれてさし
   いだせり

63
 ありあけの ここちこそすれ さかづきに
 ひかげもそいて いでぬとおもへば

   しはすのつこもりる所の七夜
   にゆきのふるに

64
 こよひより いまやちとせの ゆきつまむ
 そらのけしきも いちじるきかな

   立春ののちのゆき
65
 はるはたち またふるとしの ゆきはふ
 り、そらにこころを わきそかねつる

   人々ありてゆきのうちのわかなを
   よみはべりしに
66
 かすがのの わかなもいまは おふらめと

 (人よりさきに ゆきぞふりつむ)




   方爾由川利徒遣者部利天以利天乃々
   知毛乃以者世侍天春乃宇知與利
   可波良計爾悲可計遠以礼天左之
   以多世利

63
 安利阿遣乃 己々地己曾春礼 左可川支仁
 悲可計毛曾比天 以天奴止於毛部八

   志波春乃徒己毛利安留所乃七夜
   爾由支乃不留仁

64
 己與比與利 以末也知止世乃 由支徒万武
 曾良乃希之支毛 以知之留支可那

   立春乃々知乃由支
65
 者留波多知 末多不留止之乃 由支波不
 利、曾良爾己々呂遠 和支曾加禰徒留

   人々安利天由支乃宇知乃和可那越
   與美者部利之二

66
 加数可乃々 和可那毛以末者 於不良女登

 (人與利左支仁 由支曾不利川武)


 
「爾」は「尓」とすることも。
「與」は「与」とすることも。
「礼」は「禮」とすることも。


 女方に押し付けになられて、そこへ入られた後に効果を発揮させて、簾の内より土器の盃に(注いだ酒に)月の影を映して御差し出しなされて、

63
夜明け前、旅に出立する時の気分ですよ。盃に注がれた酒に月の影が映って、一緒になって連れ添い出発できると思えば。

しちや
七夜;子供が生まれて七日目の夜。又その祝。

64
今夜よりここに千歳の雪(歩み行路)を掴み取りましたよ、空の景色もはっきりとしておりますよ。(「雪」に「往き」を懸けて行末の前途を祝ったもの

65
春になったと云うのに未だ過ぎ去ったはずの年(季節)の雪が降っているよ、(何故だかなあ)お天道様の考えていることは分別できないよ。(全く思いも寄らないよ。)

66
春日野の若菜も今頃にはもう芽生えてきているだろうと、他人より先に出かけて行って(活力を呼び覚ますように)一心不乱に摘み取りましょうぞ。
或は、春日野の若菜も今頃にはもう芽生えているだろうと、他人よりも先に出かけて行ってはみたけれど雪が降り積もってしまいましたよ。(他人様を出し抜こうと思いましたのに、とんだ取越苦労になってしまいましたよ。)

わかな
若菜;正月七日の七草粥に入れる春の野草の若芽。新春の若菜を積んで、その生命力にあやかろうとしたもので、春の七草のみならず昔は春の食用になる草の総称であった。芹・薺・御行・繁縷・仏の座・菘・蘿蔔(清白)の七草が一般的。

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おおなかとみのよしのぶ
大中臣能宜;平安中期の歌人で、伊勢神宮の祭主でもある。梨壺五人衆の一人で、三十六歌仙にも入る。坂上望城、源順、清原元輔、紀時文らと共に951年、三代集の第二である20巻もの後撰集(村上天皇の勅命による勅撰和歌集)を撰進する(成立年代は未詳、約1400首収められているが、ここに撰者の歌は無い)。能宜の歌は拾位遺、後拾遺集などに入る。正四位下、生921年、没991年。

なしつぼ
梨壺;平安京内裏の五舎の一つ、北東隅の桐壷の南にあたる昭陽舎の別称。温明殿の北、麗景殿の東に在り前庭に梨が植えられていた事から梨壺と呼ばれた。この地で後撰和歌集の編纂と万葉集の訓釈を行ったことから、これに当たった五人を「梨壺の五人」と称した。




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