高野切(高野切古今集)第三種書風 巻子本巻第十九・古今和歌集断簡

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第五巻と末巻とに奥書された後奈良天皇の花王により、永らく伝紀貫之筆とされてきたが、現在では三名の能書きによるものという説が定着している古今和歌集として現存する最古の書写本である。高野切の名は秀吉から古今和歌集の一部が高野山金剛峰寺文殊院の住持である木食応其に色紙型に切断した茶掛けとして分け与えられた物が、高野山から周知されたことに始まり一連の他の書写の物も同様に高野切と呼ばれるようになる。11世紀中ごろの書写と推定される。(貫之自筆本三本の謎についてはこちら

第三種書風(書写人不詳)、第十三巻〜第十九巻。十八・十九巻は現存。伝藤原行成筆蓬莱切・同御物朗詠集(粘葉本和漢朗詠集)・同伊予切和漢朗詠(上巻の前半部分)・同法輪寺切和漢朗詠・同近衛本和漢朗詠等との筆跡に酷似している。所謂『行成様』の手によるもの。
端正と迄はいかない乍らものびのびとした流麗な仮名が適度な潤渇を交えて美しく、雅やかであり気高くもある。穏かで優しさを秘めた書体として、読み手に取っても手習の手本とするにしても程よい素材となる。特にこの旋頭歌部分ではこれまでと異なり、女手(平仮名)ではなく万葉仮名的な草仮名表記手法を用いて歌を書写しており、もし仮に手本が万葉仮名風でなければこの時点で何らかの心境の変化があったのではと推察される。
(或はつい和漢朗詠書写の癖が出てしまったものか、将又単なる遊び心か)

料紙は麻紙風の鳥の子で雲母砂子を振った薄茶色の素紙(或は具を塗っていない染紙)で、振り量の多い物や少ない物など巻や部位によりまちまちである。この第三種書風の各巻の料紙は雲母砂子が多く振られている物や振り量の極少ない物、雲母粒のやや大きなものなどが目につき、料紙は寄せ集められたものではないかとの憶測も感じられる。

高野切臨書用紙は本鳥の子製染紙に雲母砂子振

高野切 巻子本・巻第十九 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第十八 末紙 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第十八 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第十八 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第十八 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ
巻子本 『高野切』・巻第十九 断簡
第三種書風
  
巻子本 『高野切』・巻第十八
断簡 第三種書風
  
巻子本 『高野切』・巻第十八 断簡
第三種書風
  
 『高野切』 
巻第十八
第三種書風
 
  『高野切』 
巻第十八  断簡
第三種書風
高野切 巻子本・巻第十九 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第十九 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第十九 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第十八 末紙 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第十八 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第十八 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 
巻子本 『高野切』
巻第十九 断簡
第三種書風
  
巻子本 『高野切』
巻第十九 断簡
第三種書風
  
巻子本 『高野切』
巻第十九 断簡
第三種書風
 
巻子本 『高野切』
巻第十八
断簡 第三種書風
   
 『高野切』 
巻第十八  断簡
第三種書風
 
 『高野切』 
巻第十八  断簡
第三種書風
 
『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第十九 断簡「旋頭歌」 部分拡大へ 『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第八 断簡 「や」 部分拡大へ 『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第二十 断簡 「や」 部分拡大へ 『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第十九 断簡「旋頭歌」 部分拡大へ 『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第八 断簡 「や」 部分拡大へ 『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第二十 断簡 「や」 部分拡大へ
第三種書風 第二種書風 第一種書風  第三種書風 第二種書風 第一種書風


『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第十九 断簡「なにをして」 部分拡大へ
巻子本 『高野切』・巻第十九 断簡『なにをして』 
第三種書風(古今倭歌集巻第十九 雑体)
 


巻子本 『高野切』
左側
巻第十九 断簡
『なにをして』
第三種書風

解説及び使用字母
 
             かな                  使用字母



            よみびとしらず
1063
 なにをして みのいたづらに おいぬらん、と
 しのおもはむ ことぞやさしき


            おきかぜ

1064

 みはすてつ こころをだにも はふら
 さじ、つひにはいかが なるとしるべく


            千里
1065
 しらゆきの ともにわがみは ふりぬれど、
 こころはきえぬ ものにぞありける


   だいしらず
            よみびとしらず
1066
 うめのはな さきてののちの みなればや、
 すきものとのみ ひとのいふらん



 



                與美比止之良須
1063
 奈爾遠之天 美乃以多川良仁 於以奴良无、止
 之能於无波武 己止曾也左之支


                於幾可世
1064
 美波春天徒 己々呂遠多仁毛 波不良
 左之、川比爾波以可々 那留止之留部久


                千里
1065
 之良由幾乃 止毛仁和可美波 不利奴礼止、
 己々呂波支衣奴 毛乃爾曾安利計留


   多以之良春
                  與美比止之良数

1066
 宇女能者那 左支天乃々知能 美奈礼者也、
 春幾毛乃止能美 比止能以不良无



解説


                   詠み人不明
1063
 何をして身の徒に老いぬらん、歳の思はむことぞ優しき。
如何した訳で我が身はこんなにも空しい様子に年老いてしまったのだろう、年老いてしまったことを考え込んでしまうことは何と身の痩せ細る事か。

                   藤原興風
1064
 身は捨てつ心をだにも放さじ、遂には如何なると知るべく。
この身は捨ててしまったよ。だがね、せめて心だけは打ち捨てないでおこう、詰まる所どのような身になるのかを知って措く為にね!。

                   大江千里
1065
 白雪の共に我が身はふりぬれど、心は消えぬものにぞ有りける。
(毎年の如く)白雪の降ってくるように私の体も年老いてしまったけれど、(風流を愛でる)その心までもは(雪とは違って)消えて無くなって終うことも無いのだよ。

     お題不明
                   詠み人不明
1066
 梅の花咲きての後のみなればや、すきものとのみ人の言うらん。
梅の花が咲いた後での実であるので物好きな人とだけ人が言っているそうですよ。(花の後に種を付けるばかりの人の様に見えるので、色好みの人とばかり噂されているそうですよ!)との揶揄を込めた歌。
或は、
梅の花の咲いた後の様な(葉ばかりで花の無い)身であるので、身分不相応な人とうわさされているようですよ!。


いたづら
徒に;努力に見合った結果が得られないで、無駄であったと失望する感じを表す。期待外れであった様に云う。役に立たない様子で。何の趣も無い様子に。など


優し;耐えがたい。恥ずかしい。肩身が狭い。元はやせる意の動詞「痩す」の形容詞で、「身が痩せ細るような思いだ」の意をあらわすもの。





はふら 
放さじ;「放す」の未然形「放さ」に意志の否定を表す助動詞「む」の終止形「じ」の付いたもの。放り捨てない様にしよう。打ち捨てないでいよう。



ふりぬれど;「降りぬ」と「旧りぬ」との掛詞。



見慣る;見慣れる。なじんで見える。「実成る」との掛詞。


好き物;物好きな人。風流な人。又は好色な人。

過ぎもの;身分不相応なもの。過分な物。



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清書用・臨書用紙 高野切 本鳥一号 染 雲母振り   戻る 『清書用・高野切」へ  清書用・臨書用紙 高野切 本鳥一号 染 雲母振り   戻る 『巻子本・高野切』へ 
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(写真は巻第八)

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『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第十九 断簡「なにをして」 右上側部分拡大 巻子本 『高野切』
巻第十九 断簡
「なにをして」 
右上側部分拡大

第三種書風
 

高野切 巻子本・巻第十九 断簡 『奈爾遠之天』 染紙 雲母砂子振り  右下側部分 別部分拡大へ
 巻子本 『高野切』
巻第十九 断簡
「奈爾遠之天」
右下側部分拡大

第三種書風
 
  拡大     巻子本 『高野切』・巻第十八 断簡「可美那川幾」 (古今倭歌集巻第十八 雑歌下)  

『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第十九 断簡「なにをして」 左上側部分 別部分拡大へ 
上側部分拡大    巻子本 『高野切』・巻第十九 断簡 (古今倭歌集巻第十九 雑体) 

『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第十九 断簡「奈爾遠之天」 左下側部分  戻る一覧へ 
 巻子本 『高野切』
巻第十九 断簡
「なにをして」
左上側部分拡大


第三種書風

































 巻子本 『高野切』
巻第十九 断簡
「奈爾遠之天」
左下側部分拡大


第三種書風

 
左下側部分拡大  巻子本 『高野切』・巻第十九 断簡「奈爾遠之天」(古今倭歌集巻第十九 雑体)  


ごならてんのう

後奈良天皇;戦国時代の天皇。後柏原天皇の第二皇子で在位は1526年〜1557年、当時は皇室が最も衰弱した時代で即位式も出来ずに十年が経ち、北条・大内ら戦国大名の献金によってようやく挙行が叶った。疫病の流行や飢饉の際に宮中で修法を行い、般若心経を書写して祈願したことは窮乏生活を露呈しているとともに有名である。日記に「天聴集」がある。また天文十三年三月十五日付の日記に『陽明(前太政大臣近衛種家四十二歳)より、古今集奧書の事申さる。貫之の筆なり。近比、比類なき事なり。』とあることから高野切古今集第五巻・第二十巻の奧書の花王が後奈良天皇の物と分かる。(生年1496年〜没年1557年)

こんごうぶぢ
金剛峯寺;和歌山県高野山にある高野山真言宗の総本山。816年に空海が開山し、819年寺塔を建立する。平安中期には東寺と真言宗本山の地位を争ったが、敗れて東寺長者の管轄を受けるに至り勢いが衰えた。然しながら、平安末期になると復興を遂げ、白河天皇・鳥羽天皇からの崇拝を厚くして1132年には覚鑁が伝法院を建てて隆盛に赴いた。空海の入定処として多くの参詣者を集め、大師信仰・納骨信仰の中心となるなど、この頃に成ると宗派を超えて納骨、造塔の風習が盛んとなり、真言密教の典籍を主とした高野版の開版なども始められた。戦国時代には織田信長の家臣の武将の攻撃も受け、豊臣秀吉も当初攻撃を試みたが、その応対をした応其に帰依して保護を加えるようになった。全山は12区に分かれ、中心部は壇場と呼ばれ金堂・根本大塔がある。また奥の院には空海の遺体を安置しており、経蔵には高麗版一切経が納められている。金剛峯寺本坊は秀吉が寄進した青巌寺で、大建築の主殿・書院となっている。また、不動堂は平安時代の和様建築の様式を伝える鎌倉時代初期の名作で、高野山最古の現存する建築となっている。



≪貫之筆とされてきた理由≫
紀貫之自筆本が三本存在し、帝と后宮に奉る二本、家に止る一本(貫之の娘の手習い用の手本とした一本で、後に崇徳天皇に奉られる)がその後の当時の書写本の記載からその存在が確認されており、当時において自筆本が存在していたことによる。藤原清輔筆『袋草紙』(1158年頃成立の歌学書。1159年には二条天皇に奏覧する。)によると
   ようめいもんいん         おうじょ さだこないしんのう
T、陽明門院(三条天皇の皇女禎子内親王)御本【貫之自筆、序無し・全20巻】 ⇒1142年11月火事にて消失。 
ちゅうぐうよしこ  ふじはらのなりのぶてい   つちみかどてい
  醍醐天皇に奏上された奏覧本。藤原道長の「御堂関白日記(長和二年四月十三日条)」によると、三条天皇の中宮妍子が藤原斉信邸から土御門邸に帰る途中琵琶第に立ち寄って姉の皇太后彰子を訪ねた折、斉信からの贈物である貫之自筆の手本をそのまま皇太后(陽明門院の母后が)に献じたとある。また栄花物語によると貞子内親王の御裳着の際に「円融院より一条院に渡りける物」としての貫之自筆本の古今集と兼明親王の後撰集、小野道風筆の万葉集其々20巻セットを手習の為の手本として皇太后彰子より贈られたという事になっている。

   
おののこうたいごうぐう   ふじはらのよしこ ごれいぜいてんのう
U、小野皇太后宮(藤原歓子・後冷泉天皇の皇后)御本【貫之自筆、仮名序在り・全21巻】 ⇒皇太后の御所火災にて焼失。
(詳細不詳、前田家蔵古今集下冊見返しより)
  若狭守藤原通宗本の奧書に小野皇太后所有の貫之自筆本を一字も違えず原本さながらに書写した。とあり、前田郁徳会所蔵の清輔本古今集にも同様の記述が有る。
         
ひだりのおほいまうちぎみみなもとのありひと                           きよすけこきんしゅう
V、花園左府(左大臣源有仁)御本【貫之妹自筆、仮名序在り・全21巻(妹=妻、清輔古今集の奧書には貫之自筆とあり)】
  飛鳥井雅縁の「諸雑記」より藤原教長の書写と確認できる今城切古今集の奧書に花園左大臣源有仁から崇徳天皇に献上した貫之妻自筆本を書写したものとある。教長の「古今集註」によっても、輔仁親王から有仁に渡り讃岐院御在位の時にこれを献上している。清輔古今集の奧書から正本は冷泉院左府に在り、閑院東宮大夫(藤原実季)本から伝えられたものとある。

の三本となる。以上何れにも真名序は存在しておらず、序がないか仮名序が存在しているのみである。元々奏覧本には序(仮名序)しかなく真名序は後で付け加えられていたものだという事が想像される。宮内庁書陵部蔵本の「俊成本古今集」の奧書にも家伝の秘蔵本として、貫之自筆本である紀氏家正本を伝えていた。是は巻頭に仮名序が有るのみで真名序の無いものであった。ところが俊成の師匠である藤原基俊の持つ書写本には巻頭に真名序、次に仮名序が有ったと云われその真名序は基俊自身が書き加えたものだということである。当時まだ知識人の間では、正式文書には真名を用いるという風習が根強く残っていたことが窺える。

                         
こうたいごう あきこ      たけこ
※中宮妍子は藤原道長の次女、長女は皇太后彰子。三女威子が後一条天皇の皇后である。三女を入内させた頃に詠んだ歌が、「この世をば我が世と思ふ望月の欠けたることも無しと思へば」となり、権力争いの頂点に立ったことを喜んだと云われている。
 
ふじわらのさねすえ      ふじわらのきんすえ    だいごてんのう   おうじょ やすこないしんのう
※藤原実季の曾祖父藤原公季の母が醍醐天皇の皇女康子内親王である。おそらくはこの時に手習の手本書として伝授されていたものと推察される。

ふじわらのもととし
藤原基俊;平安時代後期の歌人、歌学者でもある。同じく歌人で金葉和歌集撰者の源俊頼とは相対し、保守的な立場をとる。万葉集に解釈の為の補助としての訓点を付けた一人でもあり、藤原俊成には古今集の訓釈を伝えている。編著に「新撰朗詠集」、自家集に「基俊集」がある。(生年?〜没年1142年)


みなもとのとしより
源俊頼;平安時代後期の歌人。藤原公実ら堀川天皇の側近歌人を中心に藤原基俊を含む十数名の歌人で詠んだ、組題百首和歌としての『堀川百首』を企画し成功に導き、藤原俊成を通じて後の世の規範となるなど、王朝和歌に新展開をもたらした。歌道の文芸意識、批評意識を高めたとされる。木工頭として官位を退き、出家後は能貪と名乗る。従四位上。保守派の藤原基俊とは相反する態度をとり、歌は自由清新、詩想豊かで生活感に富んだ素朴な気持ちを歌詞に込めた。白河法皇の院宣で金葉和歌集を撰した。著書に俊頼口伝或は俊秘抄とも云われた作歌の為の手引書としての歌論書『俊頼髄脳』、家集に『散木奇歌集』がある。又俊頼筆と伝えられる元永本古今和歌集には巻頭に仮名序が有るのみで真名序は採用されていない。(これは態とそのように書写したとも取れるし、そもそも原本には仮名序のみであったとも取れる)(生年1055年頃〜没年1129年頃)


古今和歌集;905年醍醐天皇(在位9年目若干21歳の時)の勅命、紀友則・紀貫之・凡河内躬恒・壬生忠岑が撰者となり編纂、但し紀友則は大方の歌を撰出した後間もなく没、その後約9年かかって漸く914年頃完成か。収蔵は約1100首全20巻、前後に序を置くものも有り、その場合巻頭には仮名序巻末には真名序が有る。分類は、春・夏・秋・冬・賀・離別・羈旅・物名・恋・哀傷・雑・雑体の12に加えてこの時に初めて作られたと思われる大歌所御歌。
高野切は奏覧本の奏上から下る事約140年、1045年頃に書写されたと思われる古今和歌集最古の現存本であり、最も貫之自筆本に近い書写本と思われる(但し能書による女手の技量は貫之の頃の物とは違いかなり流麗になっていると思われる)。



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