高野切(高野切古今集) 巻子本・古今和歌集断簡

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第五巻と末巻とに奥書された後奈良天皇の花王により、永らく伝紀貫之筆とされてきたが、現在では三名の能書きによるものという説が定着している古今和歌集として現存する最古の書写本である。高野切の名は秀吉から古今和歌集の一部が高野山金剛峰寺文殊院の住持である木食応其に色紙型に切断した茶掛けとして分け与えられた物が、高野山から周知されたことに始まり一連の他の書写の物も同様に高野切と呼ばれるようになる。11世紀中ごろの書写と推定される。

第一種書風(書写人不詳)、
第一巻・第九巻〜第十二巻・第二十巻、発見されてはいないがおそらく仮名序も。茶字は現存。
おおらかで高貴に満ちたというか整った筆致で、典雅優麗と呼ぶに相応しい。
第二種書風(源兼行筆)、第二巻〜第八巻。
二・三・五・八巻は現存。
第三種書風(書写人不詳)、第十三巻〜第十九巻。
十八・十九巻は現存。伝藤原行成筆蓬莱切・同御物朗詠・同伊予切和漢朗詠・同法輪寺切和漢朗詠・同近衛本和漢朗詠等との筆跡に酷似している。所謂『行成様』の手によるもの。
古今和歌集書写本であるので元は二十巻、それに仮名序が付いていたものと思われる。現存するのは全部で9巻そのうち3巻(巻第五、巻第八、巻第二十)が完本として残されている。料紙は麻紙風の鳥の子で雲母砂子を振った薄茶色の素紙(或は具を塗っていない染紙)で、振り量の多い物や少ない物など巻や部位によりまちまちである。

弊社臨書用紙『高野切」は本鳥の子製染紙に雲母砂子振
巻子本『高野切』(高野切古今集;昭和初期模写本
拡大写真及び解説は順次掲載予定です

高野切 巻子本・巻第九 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第一 染紙 雲母砂子振り  拡大へ  高野切 巻子本・巻第一 染紙 雲母砂子振り  拡大へ  高野切 巻子本・巻第一 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 
巻子本 『高野切』・巻第九
第一種書風
 
巻子本 『高野切』・巻第一
第一種書風
 
巻子本 『高野切』・巻第一
第一種書風
 
 巻子本 『高野切』・巻第一
第一種書風
高野切 巻子本・巻第八 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第十八 染紙 雲母砂子振り  拡大へ  高野切 巻子本・巻第十八 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第十八 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第十八 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 
巻子本 『高野切』・巻第八
第二種書風
  
巻子本 『高野切』・巻第十八
第三種書風
  
巻子本 『高野切』・巻第十八
第三種書風
  
 巻子本 『高野切』・巻第十八
第三種書風
 


清書用 高野切 9寸7分×1尺2寸(29.4cmx36.4cm)
本鳥一号使用の染、雲母振り(現在流通のもの)もしくは高知の鳥の子仕様の染、雲母振り。

清書用・臨書用紙 高野切 本鳥一号 染 雲母振り   戻る 特価品情報へ  清書用・臨書用紙 高野切 本鳥一号 染 雲母振り   戻る 特価品情報へ 
 清書用 高野切 9寸7分×1尺2寸(29.4cmx36.4cm)
ネットショップへ 高野切  ばら売1枚1408円(税込) 
       き ら す な ご
 高野切 雲母砂子の様子
(写真は巻第八)

資料館限定販売となりますが、一部やや難あり1枚720円(税込)。色には多少の偏りが御座います。
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数に限りが御座いますので、お越しの祭には予め御問合わせ頂く事をお勧め致します。
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新鳥使用の染、雲母振り 
やや難有の品練習用は、資料館限定販売となりますが、40枚入り2,500円(税込)。色には多少の偏りが御座います。
数に限りが御座いますので、お越しの祭には予め御問合わせ頂く事をお勧め致します。


清書用・臨書用紙 高野切 本鳥一号 染 雲母振り   戻る 特価品情報へ 
巻子本 『高野切』・巻第八
第二種書風
 
 巻子本 『高野切』・巻第八表紙 (古今倭歌集巻第八 離別)
 

清書用・臨書用紙 高野切 本鳥一号 染 雲母振り   戻る 特価品情報へ
 






 巻子本 『高野切』・巻第八
見返し料紙
(金銀青金大中小切箔
砂子ノゲ散し)

第二種書風


高野切 巻子本・巻第八・第一紙 染紙 雲母砂子振り 第二種書風 拡大へ
 巻第八 第一紙


高野切 巻子本・巻第八・第二紙 染紙 雲母砂子振り 第二種書風 拡大へ
 巻第八 第二紙



巻子本 『高野切』・巻第八 (古今倭歌集巻第八 離別) 見返し料紙(縦8寸7分×横1尺8分) 
金銀青金大中小切箔砂子ノゲ散し
 


ごならてんのう

後奈良天皇;戦国時代の天皇。後柏原天皇の第二皇子で在位は1526年〜1557年、当時は皇室が最も衰弱した時代で即位式も出来ずに十年が経ち、北条・大内ら戦国大名の献金によってようやく挙行が叶った。疫病の流行や飢饉の際に宮中で修法を行い、般若心経を書写して祈願したことは窮乏生活を露呈しているとともに有名である。日記に「天聴集」がある。また天文十三年三月十五日付の日記に『陽明(前太政大臣近衛種家四十二歳)より、古今集奧書の事申さる。貫之の筆なり。近比、比類なき事なり。』とあることから高野切古今集第五巻・第二十巻の奧書の花王が後奈良天皇の物と分かる。(生年1496年〜没年1557年)

こんごうぶぢ
金剛峯寺;和歌山県高野山にある高野山真言宗の総本山。816年に空海が開山し、819年寺塔を建立する。平安中期には東寺と真言宗本山の地位を争ったが、敗れて東寺長者の管轄を受けるに至り勢いが衰えた。然しながら、平安末期になると復興を遂げ、白河天皇・鳥羽天皇からの崇拝を厚くして1132年には覚鑁が伝法院を建てて隆盛に赴いた。空海の入定処として多くの参詣者を集め、大師信仰・納骨信仰の中心となるなど、この頃に成ると宗派を超えて納骨、造塔の風習が盛んとなり、真言密教の典籍を主とした高野版の開版なども始められた。戦国時代には織田信長の家臣の武将の攻撃も受け、豊臣秀吉も当初攻撃を試みたが、その応対をした応其に帰依して保護を加えるようになった。全山は12区に分かれ、中心部は壇場と呼ばれ金堂・根本大塔がある。また奥の院には空海の遺体を安置しており、経蔵には高麗版一切経が納められている。金剛峯寺本坊は秀吉が寄進した青巌寺で、大建築の主殿・書院となっている。また、不動堂は平安時代の和様建築の様式を伝える鎌倉時代初期の名作で、高野山最古の現存する建築となっている。



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