高野切(高野切古今集)第一種書風 巻子本巻第二十・古今和歌集断簡

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第五巻と末巻とに奥書された後奈良天皇の花王により、永らく伝紀貫之筆とされてきたが、現在では三名の能書きによるものという説が定着している古今和歌集として現存する最古の書写本である。高野切の名は秀吉から古今和歌集の一部が高野山金剛峰寺文殊院の住持である木食応其に色紙型に切断した茶掛けとして分け与えられた物が、高野山から周知されたことに始まり一連の他の書写の物も同様に高野切と呼ばれるようになる。11世紀中ごろの書写と推定される。(貫之自筆本三本の謎についてはこちら

第一種書風(書写人不詳)、
第一巻・第九巻~第十二巻・第二十巻、発見されてはいないがおそらく仮名序も。茶字は現存。
おおらかで高貴に満ちたというか整った筆致で、典雅優麗と呼ぶに相応しい。
現代の平仮名に最も近いかならしい仮名を用いた書風の写本で有り、書を始めたばかりの人にも優しく入って行ける手本となっている。
料紙は麻紙風の鳥の子で雲母砂子を振った薄茶色の素紙(或は具を塗っていない染紙)で、振り量の多い物や少ない物など巻や部位によりまちまちである。

高野切臨書用紙は本鳥の子製染紙に雲母砂子振

高野切 巻子本・巻第九 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第九 断簡 染紙 雲母砂子振り 第一種書風  拡大へ 高野切 巻子本・巻第一 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第一 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第一 第一紙 染紙 雲母砂子振り  拡大へ
巻子本 『高野切』・巻第九
第一種書風
 
巻第九  巻子本 『高野切』・巻第一
第一種書風
 
巻子本 『高野切』・巻第一
第一種書風
 
 巻子本 『高野切』・巻第一
第一種書風
     高野切 巻子本・巻第二十 第二紙 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第二十 末紙 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第二十 第一紙 染紙 雲母砂子振り  拡大へ
    巻子本 『高野切』・巻第二十
第一種書風
  
巻子本 『高野切』・巻第二十
第一種書風
 
 巻子本 『高野切』・巻第二十
第一種書風


『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第一 末紙 部分拡大へ
巻子本 『高野切』・巻第二十 末紙 (古今倭歌集巻第二十 雑 神歌)
かんすぼん こうやぎれ
巻子本 『高野切』
巻第二十 第二紙
第一種書風

解説及び使用字母
 
             かな                  使用字母

  神楽歌 

   とりもののうた

1074
 かみがきの みむろのやまの さかきばは、
 かみのみむろに しげりあひにけり

1075
 しもやたび おけどもかれぬ さ
きばの、
 たちさかゆべき かみのきねかも

1076
 まきもくの あなしのやまの やまびとと、ひ
 ともみるがね やまかづらせよ

1078
 みちのくの あだしのまゆみ わがひかば、
 すゑさへよりこ しのびしのびに

1079
 わががどの いたゐのしみづ さととほみ、
 ひとしくまねば みくさおひにけり

   ひるめうた

1100
 ささのくま ひのくまがはに こまとめて、
 しばしみづかへ かげをだにみむ


黄文字は不明文字又は脱字

  神楽哥

   止利毛乃々宇太

1074
 可美可幾乃 美武呂能也末乃 左可支波々、
 加見能美武呂爾 之个利安比爾計利

1075
 之毛也太比 於个止无可礼奴 散□支者乃、
 多知左可由部支 可美乃支禰可毛

1076
 万支毛久乃 安奈之能也末乃 也末比止々、比
 止毛美留可禰 也末可川良世與

1078
 美知乃久乃 安多之乃末由美 和可比閑波、
 春恵左部與利己 之乃比


1079
 和可々止乃 以多為乃之美川 左止々保美、
 比止之久末禰者 見久左於比爾个利

   比留女宇多

1100
 左々乃久末 悲乃久万可波爾 己末止女弖、
 之波之美川可部 加个遠多爾美無


□は不明文字又は脱字、「乀」は三文字繰返し。
解説

  神楽歌 

    採物の歌

1074
 神垣の三室の山の榊葉は、神の御室に茂り合ひにけり。
神の御座しまする処である三室山の榊の葉が、神の御室(居所)と有って大いに繁茂しておりますよ。

1075
 霜や度措けども枯れぬ榊葉の、立ち栄ゆべき神の巫覡かも。
霜が幾度となく降りても(色が変わる事も)枯れてしまうことも無い榊の葉の様に、益々繁栄して行くに違いない神楽の舞ですよねえ!。

1076
 巻向のあなしの山の山人と、人も見るがね山鬘せよ
巻向の痛足と云う名の山に住む山人と、人も見間違えるくらいに頭の上に山蔓を沢山飾り付けなさいよ。

  (この間一首分脱落)
*1


1078
 陸奥の他しの真弓我が引かば、末さへ寄子忍び偲びに
陸奥の別の真弓を私が引いたならば(もし仮にここで背いたとしたならば)、行く末までも主従関係の寄子として我慢して深く思い慕う事になるでしょう。


 我が門の板井の清水里遠見、人し汲まねば水草生ひにけり
我が家の庭の板井の清水は里から程遠いと見えて、人も汲みに来ないので水草が生い茂ってしまったなあ!。



    天照大御神を称える歌

 笹の隈檜の隈川に駒留めて、暫し水飼へ影をだに見む
笹の隈の檜前川の川辺に馬を止めて、暫くの間馬に水を飲ませて一休みしながら水面に映る影だけでも見る事としよう。
(光が有るから影を見る事が出来る本当にありがたい事ですよ。と日の女神をねぎらう歌)

隈笹の名は冬に葉の縁が枯れて白くなることから葉身の濃緑と縁の覆輪の白色とのコントラストから付いたもの。確証はないが檜前を導き出すための枕詞であったのかもしれない。
かみあそびのうた
神楽歌;神楽に合わせて歌う歌。宮中で行われる御神楽の儀の為に伝承された歌謡を指すことが多い。
にはび とりもの おおさいばり こさいばり
庭燎・採物・大前張・小前張・星歌などよりなる。

とりもの
採物;祭事の時神人が手に取り持つ道具。特に神楽の時に舞人が手に取って舞うもの。榊・幣・杖・篠・弓・剣・鉾・杓・葛など。

かみがき
神垣の;枕詞。神の鎮座する場所の「みむろ」及び「みむろ山」に掛る。
神垣は神社の周囲にめぐらした垣根。玉垣。

き ね        かんなぎ めかんなぎ  おかんなぎ
巫覡;神に仕える人。巫覡。巫(女性)覡(男性)。
神楽を奏して神慮をなだめ、神意を伺い神卸を行いなどする人。

まきもく       あなし       まきむくいせき
巻向;奈良県桜井市穴師一帯の呼び名。纏向遺跡が有り、記紀伝承上の天皇である垂仁・景行両天皇の皇居の在った地でもある。

あなしのやま
痛足山;穴師山とも。歌枕。巻向山の異称。奈良県桜井市北部の山。

やまかづら             やまかずら         かづら
山鬘;ヒカゲノカズラの異称である山蔓を冠や髪に飾り掛けて鬘とした物。



みくさ
水草;水中又は水辺などに生える草の総称。


ひるめうた        あまてらすおおみかみ
日靈歌;日の女神である天照大御神を称える歌。或は太陽神に仕える巫女を称える意の歌。

ささ くま 
笹の隈;隈笹の生えている、川や道が曲がって入り込んだ所。また光と陰の接する所。        
あ す か むら ひのくま
或は「さ」は接頭語で奈良県高市郡明日香村檜前。とする説も。
 
かげ   か げ                     たてがみ
「影」は「鹿毛(鹿の毛の様に茶褐色をした馬の毛色の名、鬣・尾・四肢の下部は黒い)」との掛詞。

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清書用 高野切 9寸7分×1尺2寸(29.4cmx36.4cm)
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清書用・臨書用紙 高野切 本鳥一号 染 雲母振り   戻る 『清書用・高野切」へ  清書用・臨書用紙 高野切 本鳥一号 染 雲母振り   戻る 『巻子本・高野切』へ 
 清書用 高野切 9寸7分×1尺2寸(29.4cmx36.4cm)
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       き ら す な ご
 高野切 雲母砂子の様子
(写真は巻第八)

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   練習用 高野切 はこちら
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『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第二十 第二紙 右上部分 別部分拡大へ 巻子本 『高野切』
巻第二十 第二紙
右上側部分

第一種書風
 
  右上側部分拡大     巻子本 『高野切』・巻第二十 第二紙 (古今倭歌集巻第二十 雑 神歌)  

『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第二十 第二紙 右下側部分 別部分へ
 巻子本 『高野切』
巻第二十 第二紙
右下側部分

第一種書風
 
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巻第二十 第二紙
左上側部分

第一種書風
 
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二行目
しのび

「能」と「比」の間の
右側から「爾」の前に
架けて三文字分を
表す「」の文字



 巻子本 『高野切』
巻第二十 第二紙
左下側部分

第一種書風





 
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ごならてんのう

後奈良天皇;戦国時代の天皇。後柏原天皇の第二皇子で在位は1526年~1557年、当時は皇室が最も衰弱した時代で即位式も出来ずに十年が経ち、北条・大内ら戦国大名の献金によってようやく挙行が叶った。疫病の流行や飢饉の際に宮中で修法を行い、般若心経を書写して祈願したことは窮乏生活を露呈しているとともに有名である。日記に「天聴集」がある。また天文十三年三月十五日付の日記に『陽明(前太政大臣近衛種家四十二歳)より、古今集奧書の事申さる。貫之の筆なり。近比、比類なき事なり。』とあることから高野切古今集第五巻・第二十巻の奧書の花王が後奈良天皇の物と分かる。(生年1496年~没年1557年)

こんごうぶぢ
金剛峯寺;和歌山県高野山にある高野山真言宗の総本山。816年に空海が開山し、819年寺塔を建立する。平安中期には東寺と真言宗本山の地位を争ったが、敗れて東寺長者の管轄を受けるに至り勢いが衰えた。然しながら、平安末期になると復興を遂げ、白河天皇・鳥羽天皇からの崇拝を厚くして1132年には覚鑁が伝法院を建てて隆盛に赴いた。空海の入定処として多くの参詣者を集め、大師信仰・納骨信仰の中心となるなど、この頃に成ると宗派を超えて納骨、造塔の風習が盛んとなり、真言密教の典籍を主とした高野版の開版なども始められた。戦国時代には織田信長の家臣の武将の攻撃も受け、豊臣秀吉も当初攻撃を試みたが、その応対をした応其に帰依して保護を加えるようになった。全山は12区に分かれ、中心部は壇場と呼ばれ金堂・根本大塔がある。また奥の院には空海の遺体を安置しており、経蔵には高麗版一切経が納められている。金剛峯寺本坊は秀吉が寄進した青巌寺で、大建築の主殿・書院となっている。また、不動堂は平安時代の和様建築の様式を伝える鎌倉時代初期の名作で、高野山最古の現存する建築となっている。

              
あられ    とやま    まさき かづら
欠落歌1077
 深山には霰降るらし外山なる、柾木の葛色付きにけり。                                       みやま  みささぎ
山奥の方では霰が降っているようですよ、里に近い山にある柾木の葛が色付いてしまっていますので。(以前には里の葛が色付くと深山(御山=御陵)では霰が降っておりましたから)
飛躍した解釈をすると、山奥の方では(訪れる機会もめっきり減った御陵では)霰が降っているようですよ、(冷たい涙を流しているそうですよ)里山では柾木の葛も黄葉して来ましたから。(そろそろお墓参りに行かれてはどうですか。)を含んでいるとみることも出来る。
果たしてこの歌は誤って脱落したものか、はたまた意図的に削除したものか。皆さんは如何思いますでしょうか。   戻る戻る



≪貫之筆とされてきた理由≫
紀貫之自筆本が三本存在し、帝と后宮に奉る二本、家に止る一本(貫之の娘の手習い用の手本とした一本で、後に崇徳天皇に奉られる)がその後の当時の書写本の記載からその存在が確認されており、当時において自筆本が存在していたことによる。藤原清輔筆『袋草紙』によると
   ようめいもんいん         おうじょ さだこないしんのう
Ⅰ、陽明門院(三条天皇の皇女禎子内親王)御本【貫之自筆、序無し・全20巻】 ⇒1142年11月火事にて消失。 
ちゅうぐうよしこ  ふじはらのなりのぶてい   つちみかどてい
  醍醐天皇に奏上された奏覧本。藤原道長の「御堂関白日記(長和二年四月十三日条)」によると、三条天皇の中宮妍子が藤原斉信邸から土御門邸に帰る途中琵琶第に立ち寄って姉の皇太后彰子を訪ねた折、斉信からの贈物である貫之自筆の手本をそのまま皇太后(陽明門院の母后が)に献じたとある。また栄花物語によると貞子内親王の御裳着の際に「円融院より一条院に渡りける物」としての貫之自筆本の古今集と兼明親王の後撰集、小野道風筆の万葉集其々20巻セットを手習の為の手本として皇太后彰子より贈られたという事になっている。

   
おののこうたいごうぐう   ふじはらのよしこ ごれいぜいてんのう
Ⅱ、小野皇太后宮(藤原歓子・後冷泉天皇の皇后)御本【貫之自筆、仮名序在り・全21巻】 ⇒皇太后の御所火災にて焼失。
(詳細不詳、前田家蔵古今集下冊見返しより)
  若狭守藤原通宗本の奧書に小野皇太后所有の貫之自筆本を一字も違えず原本さながらに書写した。とあり、前田郁徳会所蔵の清輔本古今集にも同様の記述が有る。
         
ひだりのおほいまうちぎみみなもとのありひと                           きよすけこきんしゅう
Ⅲ、花園左府(左大臣源有仁)御本【貫之妹自筆、仮名序在り・全21巻(妹=妻、清輔古今集の奧書には貫之自筆とあり)】
  飛鳥井雅縁の「諸雑記」より藤原教長の書写と確認できる今城切古今集の奧書に花園左大臣源有仁から崇徳天皇に献上した貫之妻自筆本を書写したものとある。教長の「古今集註」によっても、輔仁親王から有仁に渡り讃岐院御在位の時にこれを献上している。清輔古今集の奧書から正本は冷泉院左府に在り、閑院東宮大夫(藤原実季)本から伝えられたものとある。

の三本となる。以上何れにも真名所は存在しておらず、序がないか仮名序が存在しているのみである。元々奏覧本には序(仮名序)しかなく真名所は後で付け加えられていたものだという事が想像される。宮内庁書陵部蔵本の「俊成本古今集」の奧書にも家伝の秘蔵本として、貫之自筆本である紀氏家正本を伝えていた。是は巻頭に仮名序が有るのみで真名序の無いものであった。ところが俊成の師匠である藤原基俊の持つ書写本には巻頭に真名序、次に仮名序が有ったと云われその真名序は基俊自身が書き加えたものだということである。当時まだ知識人の間では、正式文書には真名を用いるという風習が根強く残っていたことが窺える。

                         
こうたいごう あきこ      たけこ
※中宮妍子は藤原道長の次女、長女は皇太后彰子。三女威子が後一条天皇の皇后である。三女を入内させた頃に詠んだ歌が、「この世をば我が世と思ふ望月の欠けたることも無しと思へば」となり、権力争いの頂点に立ったことを喜んだと云われている。
 
ふじわらのさねすえ      ふじわらのきんすえ    だいごてんのう   おうじょ やすこないしんのう
※藤原実季の曾祖父藤原公季の母が醍醐天皇の皇女康子内親王である。おそらくはこの時に手習の手本書として伝授されていたものと推察される。

ふじわらのもととし
藤原基俊;平安時代後期の歌人、歌学者でもある。同じく歌人で金葉和歌集撰者の源俊頼とは相対し、保守的な立場をとる。万葉集に解釈の為の補助としての訓点を付けた一人でもあり、藤原俊成には古今集の訓釈を伝えている。編著に「新撰朗詠集」、自家集に「基俊集」がある。(生年?~没年1142年)


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