高野切(高野切古今集)第一種書風 巻子本巻第九・古今和歌集断簡

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第五巻と末巻とに奥書された後奈良天皇の花王により、永らく伝紀貫之筆とされてきたが、現在では三名の能書きによるものという説が定着している古今和歌集として現存する最古の書写本である。高野切の名は秀吉から古今和歌集の一部が高野山金剛峰寺文殊院の住持である木食応其に色紙型に切断した茶掛けとして分け与えられた物が、高野山から周知されたことに始まり一連の他の書写の物も同様に高野切と呼ばれるようになる。11世紀中ごろの書写と推定される。

第一種書風(書写人不詳)、
第一巻・第九巻〜第十二巻・第二十巻、発見されてはいないがおそらく仮名序も。茶字は現存。
おおらかで高貴に満ちたというか整った筆致で、典雅優麗と呼ぶに相応しい。
現代の平仮名に最も近いかならしい仮名を用いた書風の写本で有り、書を始めたばかりの人にも優しく入って行ける手本となっている。
料紙は麻紙風の鳥の子で雲母砂子を振った薄茶色の素紙(或は具を塗っていない染紙)で、振り量の多い物や少ない物など巻や部位によりまちまちである。

高野切臨書用紙は本鳥の子製染紙に雲母砂子振

高野切 巻子本・巻第九 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第九 断簡 染紙 雲母砂子振り 第一種書風  拡大へ 高野切 巻子本・巻第一 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第一 断簡 染紙 雲母砂子振り  拡大へ 高野切 巻子本・巻第一 第一紙 染紙 雲母砂子振り  拡大へ
巻子本 『高野切』・巻第九
第一種書風
 
巻第九  巻子本 『高野切』・巻第一
第一種書風
 
巻子本 『高野切』・巻第一
第一種書風
 
 巻子本 『高野切』・巻第一
第一種書風
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    巻子本 『高野切』・巻第二十
第一種書風
 
巻子本 『高野切』・巻第二十
第一種書風
  
 巻子本 『高野切』・巻第二十
第一種書風
 


『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第九  部分拡大へ  『高野切』(高野切古今集) 巻子本 古今和歌集 巻第九  部分拡大へ
巻子本 『高野切』・巻第九 断簡 (古今倭歌集巻第九 旅心歌)
巻子本 『高野切』
巻第九 断簡

第一種書風

解説及び使用字母
 
             かな                  使用字母
 

    
たぢまのくにのゆへまかりけるときに
    ふるみのうらといふところにとまりて、

    ゆふさりのかれいひたうべけると
    ありけるひとびとうたよみけるつい
    でによめる


          ふぢはらのかねすけ
417
 ゆふづくよ おぼつかなきに たまくしげ、
 ふたみのうらを あけてこそみめ

    これたかのみこのともにかりにまかれ
    りけるときに、あまのかはといふところの
    かはほとりにおりゐて、さけなど
    のみけるついでにみこのいひけらく、
    かりしてあまのかはにいたるといふこ
    ころをよみてさかづきはさせといひ
    ければよめる。



 
 

      
多知末能久爾乃由部末可利計留止支爾
      不留美乃宇良止以不止己呂爾止末利天、

      由不左利乃可礼以比多宇部計留止
      安利計留悲止々々宇多與美个留徒以
      天爾與女留


              不知波良乃可禰春計
417
 由不川久與 於保川可奈支爾 太末久之个
 婦多美乃宇良遠 安个天己曾美女

      己礼多可乃美己乃止无爾末可礼
      利个留止支爾、安末乃可波止以不止己呂乃
      可波保止利耳於利為弖、左計奈止
      乃美計留徒以弖爾美己乃以比个良久、
      加利之弖安末乃可波爾以多留止以不己
      々呂遠與美天左可川支波左世止以比

      計禮盤與女流



解説



    但馬国の湯へ赴いている時に
    ふるみの浦と云う所に泊まって、
    夕方になる頃に乾飯を我慢しているはずだよと
    思っている人々が歌を詠んでいるついでに
    詠んだ歌

             藤原兼輔
417
 夕月夜おぼつか無きに玉櫛笥、ふたみの浦を明けてこそ見め。
夕方の月がぼんやりとして辺りも薄暗くなっている処に、二見の浦を(眺めるのならば夜が)明けてから見るべきですよ。
()


    惟喬親王の狩のお供をしていた時に
    天の川と云う川の畔に降りていき、そこで酒宴を
    開いて居る時ついでに親王が申されて
    「狩りして天の川に至る」と云う
    心情を詠んで杯は注げと言うので
    詠んだ歌

 
この後に続く歌は


ふるみの浦;ふたみの浦(二見浦)の間違いか。元永本古今集では二見浦っとなっている。

ふたみのうら
二見浦;兵庫県城崎郡城崎町(但馬國)を流れて日本海に注ぐ丸山川の入江付近。

   
かれい かれいひ
かれい;餉。乾飯の約。旅行の時などに携帯した干した飯。

玉櫛笥;櫛を入れておく箱。又、枕詞。「ふた」「み」「箱」「覆ふ」「あく」「奧」などに掛る。



惟喬親王;文徳天皇の第一皇子。母は紀名虎の娘静子。大宰帥、常陸・上野太守を歴任。第4皇子惟仁親王(清和天皇)の外積である藤原良房の力が強くて皇位継承には至らなかった。比叡山麓に出家して山城國愛宕郡の小野の里に隠居して小野宮と称した。木肌を生かした木製品の器の加工を生業とする木地師の間ではその祖と伝承されている。(生年844〜没年897)



                  業平朝臣
418
 狩(仮)ぐらし棚機つ女に宿からむ、天の河原に我は来にけり
日が暮れるまで一日中狩をして織姫様に(今夜の)宿を借りるとしようではないか、(あの有名な)天の河原に私は来たのだから。(どうじゃ、どうじゃ)


 天の川;歌枕。
天の川は今の大阪府枚方市にある淀川の支流で、ここに狩に訪れた際に詠んだもの。これを天上の天の川と掛けて、もしここがあの天上の天の川であるとしたなら織姫様に宿でも借りようじゃないか。どうだいと洒落たもの。

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巻第九 断簡
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第一種書風
 
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巻第九 断簡

 第一種書風
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ごならてんのう

後奈良天皇;戦国時代の天皇。後柏原天皇の第二皇子で在位は1526年〜1557年、当時は皇室が最も衰弱した時代で即位式も出来ずに十年が経ち、北条・大内ら戦国大名の献金によってようやく挙行が叶った。疫病の流行や飢饉の際に宮中で修法を行い、般若心経を書写して祈願したことは窮乏生活を露呈しているとともに有名である。日記に「天聴集」がある。また天文十三年三月十五日付の日記に『陽明(前太政大臣近衛種家四十二歳)より、古今集奧書の事申さる。貫之の筆なり。近比、比類なき事なり。』とあることから高野切古今集第五巻・第二十巻の奧書の花王が後奈良天皇の物と分かる。(生年1496年〜没年1557年)

こんごうぶぢ
金剛峯寺;和歌山県高野山にある高野山真言宗の総本山。816年に空海が開山し、819年寺塔を建立する。平安中期には東寺と真言宗本山の地位を争ったが、敗れて東寺長者の管轄を受けるに至り勢いが衰えた。然しながら、平安末期になると復興を遂げ、白河天皇・鳥羽天皇からの崇拝を厚くして1132年には覚鑁が伝法院を建てて隆盛に赴いた。空海の入定処として多くの参詣者を集め、大師信仰・納骨信仰の中心となるなど、この頃に成ると宗派を超えて納骨、造塔の風習が盛んとなり、真言密教の典籍を主とした高野版の開版なども始められた。戦国時代には織田信長の家臣の武将の攻撃も受け、豊臣秀吉も当初攻撃を試みたが、その応対をした応其に帰依して保護を加えるようになった。全山は12区に分かれ、中心部は壇場と呼ばれ金堂・根本大塔がある。また奥の院には空海の遺体を安置しており、経蔵には高麗版一切経が納められている。金剛峯寺本坊は秀吉が寄進した青巌寺で、大建築の主殿・書院となっている。また、不動堂は平安時代の和様建築の様式を伝える鎌倉時代初期の名作で、高野山最古の現存する建築となっている。

 


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