三十六人集 能宜集 上・下 装飾料紙(清書用臨書用紙)   戻る 『三十六人集』 粘葉本 一覧へ 

大中臣能宜の家集で、上下二冊から成り、中は更に六巻の部立に仕立てられている。書写人は不詳で歌の総数は四八五首、その内の上巻帖で巻一〜巻二の歌数一九六首、料紙数にして二九枚である。下巻帖は巻三〜巻六の歌数二八九首、料紙数にして三八枚(但し、第27紙・第28紙は第28紙を上にして二枚重ねて綴られている。)である。様々な装飾料紙が使われているが、継紙の物は少なく切継を伴った破り継が使用されている。料紙は上・下巻合せて67枚あり、内、上巻で29枚、継紙の料紙は上巻全部で9枚で、内重ね継は1枚、破り継の一部に切継の入ったもの5枚、切継だけの物も1枚、破り継だけの物2枚である。装飾継紙として、ぼかし染、墨流し、金銀大小切箔・ちぎり箔ノゲ、彩色画等々、美しく凝った作りの装飾料紙が多い。
内、下巻で38枚あり、継紙の料紙は下巻全部で6枚で、内重ね継は無く、破り継の一部に切継の入ったもの3枚、切継だけの物も無く、破り継だけの物3枚である。継紙は少ないが、ぼかし染、墨流し、金銀大小切箔・ちぎり箔ノゲ、彩色画等々、美しく凝った作りの装飾料紙も多い。
本巻は凡そ年代順となっており、四季の順を繰り返しながら詠作順に仕立てられている。



能宜集・上巻(料紙29枚、116項) (上巻料紙組順へ)

能宜集 装飾料紙 具引唐紙 『七宝紋』 拡大へ  能宜集 装飾料紙 『重ね継・切継』 拡大へ 能宜集 装飾料紙 具引唐紙 『菱唐草』 拡大へ  能宜集 装飾料紙 『破り継』 書拡大へ  能宜集 装飾料紙 『梅車』 書拡大へ 
第二一紙『七宝紋』   第十二紙『重ね継』    第十紙『菱唐草』  第三紙『破り継』   第一紙『梅車』 

巻一、歌数一〇七首で、最初に長い詞書が付いており、正月をはじめとした詠作順に歌が並べられている。四季の順を繰り返しながら、贈答歌や屏風歌などを織り交ぜた形で集められている。

巻二、歌数八九首で、こちらも正月よりの詠作順となっている。小野宮実頼の賀の屏風歌、小野宮家の屏風歌、右兵衛督(伊陟)の月令屏風歌、冷泉院の大嘗会屏風歌、一条太政大臣(為光)家障子歌などがある。



能宜集・下巻(料紙38枚、152項) (下巻料紙組順へ)

三十六人集 能宜集 下 装飾料紙 『蜘蛛の巣』 書拡大へ  三十六人集 能宜集 下 ギラ引唐紙 『小唐草』 拡大へ  三十六人集 能宜集 下 『破りi継・墨流し』 書拡大へ  三十六人集 能宜集 下 具引唐紙 『獅子唐草』 拡大へ 三十六人集 能宜集 下 具引唐紙 『菱唐草』  拡大へ 
 第二四紙『蜘蛛の巣』  第十四紙『小唐草』 第八紙『破り継・墨流し』  第六紙『獅子唐草』  第三紙『菱唐草』 

巻三、歌数は八三首、正月より始まり贈答歌が多いが、歌合せの歌や屏風歌などもある。ここには源順・紀時文と共に、万葉集の沙弥満誓の歌を基に読んだ無上の歌十二首「世の中を何にたとへむ」などもある。

巻四、歌数は七五首、此方も正月より始まり贈答歌が多い。内裏歌合や屏風歌もあり、長歌も一首ある。

巻五、歌数は五三首、やはり正月より始まり贈答歌が多い。小野宮太政大臣屏風歌、貞元二年左大臣家前栽歌合などの様な題詠のものもある。

巻六、歌数は七九首、同様に正月の贈答に始まり詠作順に並んでおり、やはり贈答歌が多い。慶賀などの際の献歌や東三条大関白殿の賀の屏風歌、当代の御五十日の祝いの歌などもある。



破り継・墨流し 下巻第八紙

三十六人集 『能宜集 下』 破りi継・墨流し  三十六人集 『能宜集 下』 破りi継・墨流し 書拡大へ
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 破り継・墨流し(左側に)(能宜集 下)(半懐紙)
破り継・墨流しの臨書用紙の写真に付きましては暫くお待ち下さい。
ギラ引唐紙に墨流しの施してある珍しいタイプのものです。
写真はギラ引唐紙
小唐草です 
 三十六人集 『能宜集 下』 具引唐紙部分 第八紙ではギラ引唐紙
花唐草ですので、実際には地の胡粉部分と柄の雲母部分とが逆転しています。 
  
写真は具引唐紙花唐草の柄部分の拡大です。
第八紙(破り継・墨流し)台紙部分のギラ引唐紙に使用されている柄と同じものです 
 
写真はギラ引唐紙
小唐草です 



三十六人集 『能宜集 下』 破りi継・墨流し 書手本 
 破り継・墨流し(能宜集 下)書手本 縦6寸7分、横1尺5分5厘 第八紙(台紙はギラ引唐紙花唐草)
唐紙の部分に直接墨流しの施されている大変に珍しいタイプのものです。

歌番号は能宜集での通し番号                    青色文字は使用字母
244
 よのなかを なににたとへむ ささがにの、
 いともてぬける しらつゆのたま

245
 よのなかを なににたとへむ ぬまみづの、
 あはのゆくへを たのむうきくさ

246
 よのなかを なににたとへむ さよふけて、
 なかばいりぬる やまのはの月

247
 世中を なににたとへむ かぜさむみ、く
 れゆくあきの うつせみのこゑ

248
 世中を なににたとへむ ふくかぜに、と
 まりさだめぬ あまのつりふね

249
 世中を なににたとへむ かみなづき、
 しぐれづきぬる もみぢばのいろ

250
 世中を なににたとへむ しもをいたみ、
 いろかはりぬる あさぢふののべ

251
 世中を なににたとへむ わたのはら、う
 ちきらしふる なみのうへのゆき



244
 與能奈可遠 奈爾々堂登部武 佐々加爾乃、
 以止毛天奴希留 之良川由乃太末

245
 夜乃奈可越 奈爾々太止部武 奴末美徒乃、
 安者乃由久部越 多乃武宇支久左

246
 與乃那可遠 奈爾々多止部武 左與不个天、
 奈可者以利奴留 也末乃者乃月

247
 世中遠 奈爾々太止部武 加世左武美、久
 礼由久安支乃 宇川世美乃己恵

248
 世中遠 那爾々太止部武 不久可世仁、止
 末利佐多女奴 安万能川利不禰

249
 世中遠 奈耳々堂止部武 加美那川支、
 志久礼川支奴留 毛美知波乃以呂

250
 世中遠 奈爾々太止部武 志毛越以多美、
 以呂可者利奴留 安左知不乃々邊

251
 世中遠 奈爾々多止部武 和太乃者良、宇
 知支良之不留 奈美乃宇部乃由支


「爾」は「尓」とすることも。
「與」は「与」とすることも。
「礼」は「禮」とすることも。
「个」は「介」とすることも。

244
世の中を如何に例えようか、全く持って本当に手の中をすり抜けるが如くの白露の玉の様であるよ。
ささがに
細蟹の;枕詞。『雲(蜘蛛)」「い」「いと」「いづく」「如何に」「命」などにかかる。奈良時代の『ささがね」の転。
細蟹は雲の糸のこと。或は蜘蛛、蜘蛛の巣のこと。

245
世の中を如何に例えようか、沼水の泡の進んで行く先を頼みとする(しか方法のない)浮草の様だね。(頼りなく不安定な状態で、一つの処に落ち着かない生活の例え。『うき」は「浮き」と「憂き」との掛けてある。)

246
世の中を如何に例えようか、夜が深まっておおかた山の影に隠れてしまった山の端の月(山の稜線の先に僅かに見える月)の様なものだろうか。(力なく沈んでゆく月に己の人生を重ね合わせたもの。)

山の端;山を遠望した時、空と山との境界辺りの山側の部分。

247
世の中を如何に例えようか、風が冷たく凍るように吹き渡り、暮れ行く秋の(風物詩の)如く、まるで蝉の抜け殻の鳴き声でもしているかのような心地だ。(空しい気持ちになってしまものだ)

248
世の中を如何に例えようか、吹いて来る風に停泊する港も決めてないで(唯ひたすら)辺りを漂っている海人の釣舟みたいなものだよ。(世間に揉まれ続けてはいるが、自分じゃどうしようもない事だよ。)

海人の釣舟;漁夫が釣りをする舟。漁師の釣舟。風と波とで木の葉の如く揺れる小舟。


249
世の中を如何に例えようか、神無月、そう時雨月に時雨付いてしまった紅葉の葉の色の様なものだよ。(神様も居ないんだね、自分の想う様にならなくて、周りに影響されてただ色付くだけだよね。)

神無月;旧暦十月。八百万の神が、この月に出雲大社に集まり、他の国に居なくなることからと考えられて来た事による。一説には、雷のない月の意とも、或は新穀により酒を醸す事からの醸成月(かみなしづき)の意とも云われている。『かむなづき」『かんなづき」とも云う。
察しの通り、出雲の国では神有月。地方によってはこの季節の西風を『神渡し」「神立風」と云って出雲への神々の旅と結び付けていた。
但し、本来の意味は『神の月』の意。『な」は上代の格助詞で「の」の意を持つ。

250
世の中を如何に例えようか、霜を迷惑なものとして(枯れて)色の変ってしまった浅茅生の荒れ果てた野原の様装かもね。
あさぢふ                    むぐら よもぎ
浅茅生;茅の疎らに生えた所。「浅茅」は『葎」『蓬」と共に荒れ果てた場所の描写によく用いられる。


251
世の中を如何に例えようか、海原かもね。先が見えなくなる程も降頻るのに、波の上の雪はどうだ、全然積もらないよね。(雪はさしずめ詠者自身の功績てしょうか、やれどもやれどもちっとも痕跡が残らんよね。とでも言いたいのでしょうか)

わた
海の原;海原。大海原。大海。

   
打ち霧らす;霧で先が見えない様にする。空を曇らせる。



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おおなかとみのよしのぶ
大中臣能宜;平安中期の歌人で、伊勢神宮の祭主でもある。梨壺五人衆の一人で、三十六歌仙にも入る。坂上望城、源順、清原元輔、紀時文らと共に951年、三代集の第二である20巻もの後撰集(村上天皇の勅命による勅撰和歌集)を撰進する(成立年代は未詳、約1400首収められているが、ここに撰者の歌は無い)。能宜の歌は拾位遺、後拾遺集などに入る。正四位下、生921年、没991年。

梨壺;平安京内裏の五舎の一つ、北東隅の桐壷の南にあたる昭陽舎の別称。温明殿の北、麗景殿の東に在り前庭に梨が植えられていた事から梨壺と呼ばれた。この地で後撰和歌集の編纂と万葉集の訓釈を行ったことから、これに当たった五人を「梨壺の五人」と称した。


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